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最近は写真日記。

転職して早1年。そしてもうすぐ不惑。

「健康だね。何かで苦労することもないし、お金に困ることもない。ただこのままだと、本当にやりたいことができないままだよ」と、イタリア時代からの友人に、手相を見ながら真顔で言われた。
 
 転職して早1年。前職には約10年ほどお世話になったが、転職後も毎月顔を出しては未だにお世話になっている。転職先の会社はいわゆるグローバル企業だが、週に一度英語を使って報告する程度で、日常業務は日本語でどうにかなっている。仕事という意味では、ある意味順調なのだろうが、相変わらず考古学の道からは逸れたままなのである。
 
 そう言えば4人目が産まれた。男の子である。これで男子2名、女子2名、犬♂、猫♀で、3:3のバランスになった。順調に家族は増え、順調に子どもたちも成長している。僕も後数ヶ月で40歳となり、不惑の歳を迎えるのだが、改めて残り半分と言われる人生の進め方を設定するタイミングなのだろう。
 
 最近、子どもの頃を思い出す。「こんな大人になりたくない」のイメージの筆頭が、「やりたいことをやれない大人」だった。何かしら言い訳をつけ、日々の生活のために働き、それでもやりたいことができずに苦悶し続ける人生。ある意味一番望まなかった生き方を進んでいて、反面あの頃の呪縛が自分を制約している気がしてならない。一つだけイメージが異なるとすれば、生活に貧窮しているわけでも、仕事が死ぬほど嫌だ、というわけでもないことだ。そしてそれこそが、次の一歩を踏み出せない一番の理由になっている。
 
 いつの間にこんなにも臆病になったのだろうか。やりたいことのために、今の生活を捨てることにためらいを感じる様になったのは、なぜだろうか。それこそ20代までは全てを捨ててでもやりたいことを求めていたのに。何よりこのブログの【ログ】を漁れば、目的志向の過去の自分がいるのに。色々なものを手に入れる、ということは結局は身が重くなるのである。
 
 ただ、自由を失っているわけではない。家族と共にあることで自由や選択肢は増え続けている分、取捨選択の重みが増加しているのだ。有り体に言えば、以前は【やりたいことができない】という状況が理解できないと思っていたが、そんな人々の葛藤がわかるようになってしまったのである。
 
 不惑を前にして、今更ながらの課題抽出である。プロジェクト的に考えれば、ここからやるべきことはまず課題設定をし考古学というゴール設定をし、逆算したネクストアクションを決めることである。実際にライフプラン表を作成し現実的なファイナンシャルプランも想定してみたが、このままでは後10年は動けなさそうなのである。
 
 そう考えてみると僕にとっての不惑という意味は、次の10年とその後の10年を見据えて行動するのみ、と捉えても良いのかもしれない。できること、できないこと、やりたいこと、やりたくてもやれないこと、やらないといけないこと、そんな葛藤や矛盾が年齢を追うごとに身にしみて、人間て生き物が少し近づいた気がした。そうして、明日からもまた苦悶しながら生きていくのだと思う。