apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

終戦記念日:59回目

 昨日でもう59年。オーストラリアに留学している時が丁度50年目だった。アエラの特集号が送られてきたのを覚えている。「日本を敗戦国だと感じる?」という質問をイタリアから日本に帰国する前に、知人に聞かれた。オーストラリアに留学した当時、僕は「日本は敗戦国だ」という意識を強く持った。それはもちろん周囲のアジア人の目もあるのかもしれないが、何よりも戦中スマトラに居た祖父の話しを、幼少の頃から聞かされていた僕は、初めて日本を出てから嫌というほど彼の話しを思い出したのだ。
 僕に質問をした知人は「イタリアに居る方が、日本は敗戦国だという意識を強く感じる」という。何故ならば「今在る状況は日本、イタリア共に同じだ。この事態、雰囲気はまさに敗戦国の辿っている道だ」ということを言っていた。僕は逆に「イタリアに居る方が、オーストラリアに居る時ほどには敗戦国という意識が弱い」と言った。現状としては日本もイタリアも、敗戦国の枠から抜け出せない。ドイツが辿った様な道を戦後から諦めていた日本では、無理もないのかもしれない。イタリアに居て、僕がオーストラリア程に強く敗戦国だと感じなかった理由は未だに掴めていない。
 8月ジャーナリズムと言うが、終戦記念日が近くなると太平洋戦争の回顧報道が始まる。確かに身近な材料かもしれないが、日本がしてきた他の戦争は何処へ行ってしまったのか。敗戦だから思い出すのか?特攻が日本人的だからか?先日のアジアカップにしても、他のブログでは歴史を学び直せということを簡単に書いているが、歴史を学ぶことは簡単なことではない。日本の高校教育からして日本史、世界史と隔てている状態では社会科学が一般的に公正に普及するとは考え難い。
 歴史から切り離された個人を謳う人間が居ても、それは現代ならばおかしくはない。文脈から断絶があって、島宇宙化していたとしても、彼らがそれで完結しているのであれば、生きていく上では問題はないのだ。映画金色のガッシュベルではないけれど、そういった個人は間違いなく存在する。それは可能性であって、無知ではない。歴史を紡ぐ人間が居れば、影響しながらもそこから外れようとする人間がいる。そういった時代の中で、8月ジャーナリズムが強まれば、アジアでの日本の位置というものはこれからも、アジアカップ同様に的外れの愛国心に対しても、他国の言動に合わせてニュートラルな位置しか保たねば成らないような国民性の無い国で埋もれていくしかない。柔軟さが強みであれば、剛を制すようなもので無ければならないが、それには芯が無ければならないのだ。

柏書房ー連載
「毒書亡羊記」第23回 アテネ・オリンピックの中の「終戦記念日
http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r01-23.html