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最近は写真日記。

こみゅにけーしょぉ〜ん!:( ̄□ ̄;)!!マイ ブッダァッ!!

 アンテナに登録されているKEN_NAITOさんのページで、気になったことがあった。「何故言葉にこだわるのか?」という問いに対して「こみゅにけーしょぉ〜ん!」という記事を上げている。僕も前にhirokiazuma.com-blogにトラバした「降りる自由とフリーライダーid:ain_ed:20040527の中でアイデンティティと言語形成について触れたが、やはり僕の中でも言語的展開なんて定番では無いけれど、人は言葉にこだわらなければならないと考えている。
 宮台真司は対象として社会=コミュニケーション可能、世界=コミュニケーション不可能という定義をしていたが、僕の中ではcommunityとassemblageという風に分けている。これは「人を見限るとき:サムライチャンプルー:暗夜行路 其之弐:そしてハチミツとクローバーid:ain_ed:20040902の中でも少し触れたが、コミュニケーションの前提には言語の伝達が行われていなければならない。
 例えば海外に出て外国語を学んでいると自国語を蔑ろにする人間がいる。「イタリア語で学んだことを、何故また日本語で学ばなければならないの?」という質問を受けたりする。人格形成時期においてイタリアに居るならまだしも、母国語が日本語で、イタリア滞在2年ほどで、他国語で学んだことを母国語で他人に説明できないで、どうしてそれを習得できたと言えようか。もちろんその国の言葉、発音でなければ伝わらないこともあるが、母国語に置換できないイメージだけの記憶では、ただの想い出止まりだ。それを学んだとは言えない。
 柄谷行人の「他者とのコミュニケーションは「話す→聞く」関係ではなく、「教える→学ぶ」関係である」は、コミュニケーションは発信者側と受信者側が伝わっているという幻想を共有している様なものだ、と森博嗣が以前そんな表現をしていたが、「教える→学ぶ」の前提にそういう意識が入るのかもしれない。ただ森博嗣は本の中で教育、もしくは教えるという行為を信じていないので、「話す→聞く」という行為の後にそれぞれの分岐があるだけかもしれない。
 僕も言葉を大事にする。それはアイデンティティがあるとすれば、母国語がメインフレームになるということを「降りる自由とフリーライダー」の中で書いたが、物事を考える時には、僕の場合どうやっても言語化している。イメージだけで生きられれば良いが、そのイメージを他人に伝える場合には結果として言語化されなければならない。もちろん「教える」という行為は、「やってみせる」という方法がもっとも簡単だが、他人に伝える場合には言語化が人間の情報伝達行為として最も望ましいだろう。
 つまり僕は言語を尊重して用いているし、互換性もあるが、データ交換の際にはもろく損傷や読み取りエラーを起こしやすいと感じている。人間がPCを作った理由はそこにあると僕は考えているけれど、話しが逸れるのでやめておく。とにかく、表現されるものが動作であっても言語であっても、他人に伝えようとした瞬間に、自分の中で明確に捉えていないと伝えようがない。テレパシーがあれば別だか、人間は言語に頼らなければならない。
 反対に教えるという行為だが、これは言葉だけでは足りな過ぎる。アプリケーションをインストールしようとした時に、本体だけでなく様々なファイルをインストールしないと動作しないようなものだ。僕の場合、言葉は大事にしてはいるが、その力を信じてはいない。それが「教える」という行為は「やってみせる」ということに繋がる。
 また柄谷行人の「教える」という行為は、夫婦間のコミュニケーションに近く、森博嗣のそれは教育の場での意味合いが強いだろう。というのも自分の言葉の意味を教え、学んでもらわなければいけない、というのは「結婚とは長い会話である」という状況の方がイメージしやすいからだ。
 どのパラグラフも、本当はもっと掘り下げるべきなんだろうけれど、全体的な意見としては以上かもしれない。思いつきでTrackBackしてみました。お邪魔しましたKEN_NAITOさん!

はてなダイアリー - ( ̄□ ̄;)!!マイ ブッダァッ!!
2004-09-18 こみゅにけーしょぉ〜ん!
http://d.hatena.ne.jp/KEN_NAITO/20040918#p1