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最近は写真日記。

留学とは、海外とは何でしょう?

 前日に引き続き、違う友人からメールにて「ゴルァ!マッキントッシュの話題が7割越えじゃ!わからんのじゃぁボケー!もっとコメントし安い話し書けや!」的な警告を受けたので、今回こそは違う話しを。「何となく警告も受けているよ。彼らにとって人1人消すことくらい、何でもないのだろう」とか、エヴァの冬月教授の言葉を思い出してみたり。
 色々と話題を考えてみた。ゲーセンでスカウトされて、家庭教師のバイト後にホストとかやって、ドンペリ飲み放題だったとかぶっちゃけて見ようかと思ったが、あまり広がりの無い話題なので却下。結局、先週末に感じたことを。
 ペルージャ外国人大学では週に2回、日本人講師が無料でイタリア語の授業を行っていることは以前書いた。先週の金曜日、用事があったので顔を出すと1人の日本人の方が質問をしていた。今回は旅行で下見を兼ねて、ペルージャ外国人大学に見学に来たとか。希望としてはフィレンツェの方に登録して、ペルージャに何ヶ月か来たいという話しだった。滞在許可証の話しや、授業のレベルの話しなど熱心に聞いていた。
 留学というのは初めての方にとってはかなりの大冒険だろう。特に海外に行ったことの無い方がいきなり海外留学などしようものならば、カルチャーショックは当然かもしれない。手続きの面倒臭さや、異邦人としての疎外感、言葉の壁と孤独感。免疫が付いていないと、これらが同時に襲ってきた場合、対処の方法は「母国語のコミュニティに逃げる」というものが一般的だろうか。
 日本で高校の友人達で夕食を食べて居た時に、僕らの会話があまりにも下品だったのか、隣のお客さん達が明らかにこっちを意識しながら話をしていた。彼らはOL3人(25〜30代前半)と若手男性社員1人(24、5歳)の4人組みで、その内の1人のOL(会話の流れからして、誰よりも先輩社員)が海外旅行から帰って来たばかりなのか、エジプトの写真をしきりに見せていた。
 僕らの会話の内容といったら、キャバクラにはまった友人へのつっこみ。時折隣の会話が聞こえてくる。「海外って本当に広いなぁって。今の若い男って何考えているのかわかんないし、歴史とか学んだことないでしょ?ラムセス2世とかパピルスとか知らないでしょう?本とか読めよって思うわよ。女にモテるかモテないかばっかりで、くだらない話しばかり。もっとさぁ、勉強して欲しいよね。海外くらい出とけ、みたいな。あんたもさぁ、やっぱりキャバクラとか行ったりするわけ?」と、一瞬「エジプトとキャバクラにどんな関係性が見いだせるんだ?」と思い、振り返ってみると、若手男性社員がこちらを気にしながら「いやー、僕はそんなところ行きませんし、キャバクラの話しなんてしませよー」と媚びていた。
 日本では良くある風景である。もちろん「エジプトとキャバクラに見いだせる、現代日本人男性の読書離れ」ではない。「私は海外に行ったの。日本に居るだけのあんたらとは何もかもが違うわ!」というような幻想である。これは男女関係なく見いだせるが、僕が今までに出会った人間の中では圧倒的に女性にこういう傾向の人が多い。「君もね、海外とかに出ればわかるわ」と言われて、「すみません、高校の時に1年オーストラリアに留学していました」というと対応が変わる女性が多かった。どうやら海外に出ていることがステイタスになったりするらしい。
 海外に出ても何も変わらない。日本に居ても同じだ。日常から外れた「非日常」のシンボルが海外であり、その行動の総称が「留学」であるのであれば、僕はそれを逆ヒキコモリと名付けたい。海外に居ようが、日本に居ようが同じ地球上に居ることは違いないし、地球人と住んで居る限り生活の本質が変わることは無い。「海外に出れば何かが変わる」というのは、「初体験をすれば世界が変わる」みたいな幻想でしかない。僕がオーストラリアに行った時に手帳に書き留めた言葉がある。

空はどこに行っても青いということを知るために、世界をまわって見る必要はない。
自分自身をなくしさえせねば、どんな生活を送るもよい。すべてを失ってもいい。
自分のあるところのものでいつもあれば。

これはゲーテのズライカに、聖千秋が自分の言葉をプラスしたものだ。作品はすすきのみみずく。この思想は今でも僕の中に根付いている。
 オーストラリアは語学を学びに。イタリアには遺跡がそこにあるから。海外に出たかったからではない。日本に居たくないからではない。僕が以前書いた「日本史と世界史」の様に、既に日本と海外という風に区別することが昭和的だ。日本の日常から外れるために、もしくは海外に出れば何かがあるからという意識で留学し、その価値観で話しをされると僕は圧倒的に不快感を覚える。留学は手段であって、留学することが目的ではない。それは「何に成りたいか?」という質問をする日本の教育みたいなものだ。僕は「研究者」とか「考古学者」に成りたいとは思わない。人生は成るものでは無いからだ。留学も同じだ。海外に居るから留学ではない。その地で何をしたいのか、その地で何ができるのか、それをイメージしていなければただの観光と同じだ。
 その地でしかできないことがあるから留学するのだ。自分の居場所探しではない。確率的にも母国で探せない居場所を他国で見いだせる可能性は低い。本気で留学を考えるのであれば、それ相応の準備をするべきだ。下見をしたり、自分の足で情報を得たり。情報過多の日本で、留学情報が見つけられないと言っていては、情報の少な過ぎる海外でどうやって自分の力で生活していくのか。
 日本人にとっては海外旅行と海外留学の垣根が希薄かもしれない。しかし他国の学生達は必死だ。彼らにすれば「なんとなく」で来られて「やっぱり」で帰られては、自分たちが馬鹿にされている様に感じられてもしょうがない。現代以降の日本の外交力が低いのも頷ける。世界は日本も含めて世界なのだ。海外は、他国から見れば、日本でさえ海外なのだ。外国人という言葉も同義。たったそれだけのことだ。そこに壁やレベル差はないのだから。