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最近は写真日記。

比べるということ:全体化の心理:はてなダイアリー - ?( ̄□ ̄;)!!マイ ブッダァッ!!

 またまた他人の企画に乗ってみようというわけではないけれど、KEN_NAITOさんの連日の記事。比べるということid:KEN_NAITO:20040926:全体化の心理id:KEN_NAITO:20040927である。
 この二つを読んで僕がイメージしたのはマクロとミクロの視点である。僕が日本の学部生の時に、特に1、2年次に研究室で嫌というほど教え込まれた比較分析。歴史を学ぶ時には、必要不可欠な視点だろう。そういう意味では、僕は比べるという方法に賛成できる。
 ただ人を、個別で見た時には

人間は飽くまで他人と比較しなければ、自分を知ることがデキナイのダヨ.

という意見に関しては、その全てにおいては素直に賛成できない。
 というのは、「比較する」ということは「比較するもの」が前提に無ければならないからだ。マクロとミクロ、どちらも細分化し、分析をする時に、そこに比較しえる特異点が無ければ、絶対的な比較は難しい*1。人間であれば個性がある。しかし、自分と他人を比べる場合に、誰しもが自らの個性を明確に意識できているかといえば、それは他人にはわからないのだ。というと、卵か鶏かみたいな不毛な話題になってしまうか。
 自分の個性を知るための「比較」というのがKEN_NAITOさんの示すところであれば、僕の場合は、その「比較」をする前に少なからず自分自身で予習をしていなければならない、ということが論点になる。
 例えば「将来何に成りたいですか?」と問われて「他人とは違うことをやりたい」と答える学生は多い。他人とは違うこと、というのは結局の所何なのか?極論で言えば「人が居ないところに行けば良い」とかだろうか。家庭教師や下の年代の学生に進路相談をされた時に、僕は「これから先、どうやって生きていきたいの?」と聞くことにしている。中にはもちろん「他人とは違った生き方」と答える学生もいるが、「何に成りたいの?」と断定するよりは学生の自発的な「意思」が尊重されるからだ。これは「留学とは、海外とは何でしょう?」id:ain_ed:20040928で少し触れた。
 この「意思」があるのであればKEN_NAITOさんの比較の段階に移ることは容易いと思う。しかし全てにおいて、「あいつが、彼女、彼氏が」と他人任せにしている場合、比較は困難な方向へ向いてしまう。もちろん「他人とは違った人生」も意思ではあるが、僕の場合それは依存の対象は結局「他人」であるために、自発的な意思と受けとることはできないのだ。また具体的に「他人とは違った人生」を実践していくのであれば、比較された絶対的な個が無ければならないだろう。
 全と個という考え方は賛成できる。1人では何もできないのが人間だ、という意見もマクロとミクロ両方の面から考えても反対する余地はない。短所ばかりが目についてしまい、個性を断定してしまうのも危険だと言える。しかし

「欠点くらいあって当然. 自分には他の側面もあるのだからソッチで勝負」

という視点に立つまでには一定時間以上、自分と向き合って居なければならない。
 例えば、僕はずっとバスケをしてきた。入部したてのころは皆初心者である。言ってしまえば横一戦。しかし厳しい練習をして、自分に負けずに、手を抜かずに継続した者だけが自分の個性を持つことができる。センスだけでは体力はカバーできない。それは他人との比較ではない。自分との戦いである。しかし確固たる個性を勝ち得た時に始めて、チームが組める。そのチームとは得手不得手をチームワークで補える様に作り上げたものだ。その時になってやっと「僕はこいつよりドリブルが上手く、シュートが下手。足が速いが、ディフェンスの読みが下手」とか理解できるようになる。これに似たようなことを「才能と努力」id:ain_ed:20040508に書いた。
 ドラクエでもFFでも良い。レベルを上げることによってキャラの比較が行えるようになる。それぞれの成長率があり、それぞれに成長していくからこそ比較できるのだ。
 KEN_NAITOさんはそれ以降の思考停止状態を書いたのだろう。マクロにも寄らず、ミクロにも寄らない孤立化。精神のヒキコモリ状態か。ただ僕にはその前提部の話しが見え難かったので、掘り返してしまった。ワンピースのルフィの様に「俺には料理は作れない。海図も描けない。剣も使えない。1人で生きていけない自信がある!」と言い切れるには、やはり比較できる何かが無いとならないからだ。

*1:ここで分析における主観と客観は棚上げしておく