自分らしさ?:はてなダイアリー - ( ̄□ ̄;)!!マイ ブッダァッ!!
またまたKEN_NAITOさんへのトラバid:KEN_NAITO:20040928。
「自分らしさ」とか、「自分探し」とゆー単語がキライである.
なぜなら, 「自分らしさ」を決めるのは他人だと思っているからである.
これは前日のid:KEN_NAITO:20040926
自分らしさに拘ろうとするヒトほど他人を知らない.
に繋がる言葉である。
僕自身も「自分らしさ」に関して言えば思いっきり他力本願である。「君はこんな人だよね」と言われれば「ああ、そうなんだ」となるし、「あれ?キャラ違くない?」とはてなの感想で言われれば「前はどんなキャラだった?」と質問したくなる。逆に「君はこうだから、こうだよね?」と断定されてしまうと、諦めてしまう場合が多い。これは「A.T.フィールドとコミュニケーション不足」id:ain_ed:20040820で例をあげた。
多分僕は人よりも圧倒的に「自分探し」の旅をしていない。中学の時に決めた「考古学を学ぶ」という道で今まで来ている。迷うことはあっても、自分の人生に悩むことは無かった。それは道を断定してしまったわけではなくて、簡単に言えば寄りそう結婚相手を見つけたようなものだろう。今までに自分が「あ、壊れたな」と感じたのはオーストラリアの留学中。インドに行った時はもしかしたら?とも思ったが、特に変化が無かった。
周囲の人間には色々な目で見られる。キャラも決めつけられる。はてなを読んで「こんな人だったっけ?」と言われることが良くあるし、きっとはてなを先に読んで実物に会ったら「は?」となるかもしれない。後半部はある意味僕の楽しみなのでそういう機会を待っていたりする。
「キャラですか?人ですか?」というテーマで、雑誌「広告」で特集をしていた。東浩紀もコラムを乗せていた。KEN_NAITOさんが後半部で書きたかったのはアインデンティティクライシス*1の典型だと思うのだが、この「認識している自己」と「他人が見ている自己」の「場」を何処に求めるのかが1番困難かと思う。場が学校や会社であれば、比較はしやすいし、KEN_NAITOさんの様に専門領域があればもっとわかりやすい。それがプライベートになると何を場にして良いのかわからなくなる。その説明のために前日の比べるということと全体化の前提が必要だったのであればわかりやすい。
それはつまり
ヒトの心理にはどうしても「全体化」というものが働いてしまう. ソレは要するに, 物事のヒトツの側面を以って、その全てを判断してしまう傾向がある
に帰結する*2。つまり、プライベートにおいて、場が存在しない場合に、人の目立つ部分が場の代わりを果たす。例えば、「あの人は、こういうキャラだよね、こういう人だよね」という風に、「他人が見ている自己」の中で、「存在感の高い自己」によってカテゴライズされてしまう。そしてそれはもちろん他人→自分だけではなくて、自分→自分を認識する時にも危険性がある。その全体化から抜け出して、始めて新たな認識が生まれてくる。それは日常において、全体化に捕われない視点こそが、結果として自由な思考をもたらしてくれるのだ。と、考えれば比べる⇔全体化⇔自分らしさというものが成り立つのだろう。