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最近は写真日記。

理系と文系:Ver.2.0

 前回の「理系と文系」id:ain_ed:20040317を書いてからも、色々と考えて、最近はまた違う視点をもっている。前回は「理系が残した混沌を文系が抽象で補う2層構造をとっている」という風に結論づけたが、方法は以上の様であっても構造は違うのではないか?と変化した。
 哲学と自然科学、それに宗教が加わると綺麗な3角形ができあがる。森博嗣の具体→混沌→抽象の関係には、彼の言葉を借りれば「神の秩序」が入るはずだ。それが前回は抜け落ちていた。宗教とか神を持ち出すと、どうしても「ん?何だ?この人は勧誘の人か?」と思われてしまうけれど、何度も書いているけれど僕自身は無宗教である。神や仏に対して特別な気持ちはない。ここで持ち出すのは対象としての宗教である。
 つまり秩序と混沌と具体、抽象。それらが哲学と自然科学、そして宗教の間を言ったり来たりする。シンプルにカテゴライズすれば宗教が秩序、哲学が混沌と抽象、自然科学が具体になるだろうか。だとすれば2層構造ではない。学問は「わからないこと」が無くなれば進化することはないが、未だに宗教が存在しているのはその「わからないこと」を補うためである。
 宗教が支配してきた観念に哲学が発達し、そして自然科学が発達した。侵食してきたと言っても良い。それでも宗教は無くならない。学問では補えない部分があるからだ。つまり理系は具体的に示し、混沌を文系に委ね、抽象で示す。その示す先にあるものは、未だ捉え切れていないものだ。
 と、書くと話しが混沌としてくる。KEN_NAITOさんが表現する「矛盾の人」id:KEN_NAITO:20040929。人間を言葉で表現すれば矛盾が生じる。具体的に捉えようとすればするほど、混沌に陥り、結局抽象で示すしかない。そしてその抽象で示す先にあるものは言葉では捉え切れないものだ。
 理系と文系は2層構造ではない。どちらが上位でもない。犀川創平が数字に「神の秩序」を魅せられたように、言葉もまた「神の秩序」を表現しようとする。そしてそれに矛盾するように「神の秩序」は、数字でも言葉でも表現し切れるものではないのだ。「感じる」ことさえできればそれで良い領域なのかもしれない。そのための道具が、哲学、自然科学、そして宗教に跨がっているだけなのだ。それは飛翔するための道具である。
 「こみゅにけーしょぉ〜ん!」id:ain_ed:20040921で「アイデンティティがあるとすれば」と仮定しているのは、つまりそういうことだ。同様に「言葉は大事にしてはいるが、その力を信じてはいない」と書いたのもそのためだ。古泉迦十の火蛾で描こうとしたもの。「それは全て言葉だ」という意味。「アインデンティティが」と言葉を発してしまった時点で影響してしまう何かがあるのだ。捕われてしまう何かがあるのだ。だからこそ、KEN_NAITOさんの「矛盾の人」という表現は受け入れやすい。明確なことと不明確なことがちょっとしたことで入れ替わる。そのおかげで学問があるわけだけれど。真賀田四季の言葉を借りれば、「外へ外へ向かいながらも、結局は中心へ帰ってしまう。かといって、止めてしまえばそこで生命が終わってしまう」ようなものだ。これからもこの問答は続いていくのだろう。