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最近は写真日記。

働く?:( ̄□ ̄;)!!マイ ブッダァッ!!

 いい加減[トラックバック]というカテゴリーを作った方が良いかもしれない。id:KEN_NAITO:20041006の記事「働く?」である。就職の問題はタイムリーかもしれない。先日も友人宛てに「仕事について」みたいなメールを書いた。
 僕は仕事、もしくは働くということに関しては、日本人の中では楽観的かもしれない。逆にアビリティとスキルに関しては僕はかなり偏った意見を持っている。「学問とビジネスと」id:ain_ed:20040426と「夢ねぇ」id:ain_ed:20040408で、学生という職業に対しての意見を上げた。
 僕の実家は自営業で果物屋である。何度も書いているが継げば4代目とかで、基本的に代々人に仕えるということをしていない。別に会社員がどうのとか、起業家がどうのとか言う話ではなくて、僕にとっては会社勤めをすることがまるでリアルではないのだ。というのも商店街育ちで、周りには自営業の子供が多く、そういった子達とばかり遊んでいた。彼らは大体が時間に縛られないで*1遊べたからだ。公務員や会社勤めの子供は往々にして決まった時間に帰宅し夕食を食べ、もしくは塾に行ったり、とにかく時間に縛られる。僕らの遊びは時間の制限が無い分、遊びを作り出さないといけないし、その分ゲームや運動能力、つまりはスキルを高めることができた。例えば商店街育ちの子達は段ボールの扱いはお手の物だし、カッターやナイフの使い方も優れている。逆に塾に行ったりする子達は社会性に優れ、情報収集能力が高い。時間通りに帰宅する子供達にしても規則的な生活を送るため、テレビや生活一般情報に関しては吸収力が高い。大別して僕の育った環境とはあまりにも差違があり過ぎるのだ。もちろん優劣の差ではなくて。
 大学の3年次に就職セミナーに強制的に出席しなければならなかったが、もう「???」の連続である。もちろん就職することが大前提になっているのでしょうがないが、「就職できない者はカスだ」的な発言がずっと続き、生徒を心理的に追いつめていた。強制出席は1度だけだったが、その後通い続けた学生は、もちろん「ていうか4年生の大学を出たからには、就職しないと意味ないよね」と思いっきりすり込まれていた。その時の1番の「?」は、就職するという視点はあっても、起業するという視点がまるで無かったからだ。
 「就職」という儀礼は日本では真性成人式みたいなものだろうか。だとしたら日本では「学生」はいつまで経ってもモラトリアム状態を示すのだろう。ある時公務員を目指す友人が、公務員で高ポストにある知人に「就職ありませんかね?」と質問したところ、「ん?何?君いくつだっけ?24歳?ふーん、結婚でもしてるの?ああ、子供でもできた?」と返され「え?全然そんなことはないですけれど、就職はしたいので」と答えると、「1人なんでしょう?まだ。生活するくらいならばアルバイトとかでもできるでしょうよ。今はねぇ、30代の切羽詰まった人たちにまず仕事をあげないといけないのよ。君、まだそこまで切羽詰まってないでしょう?」と言われた。もちろん友人に返す言葉などない。
 イタリアでは30になっても大学を卒業できない学生が多い上に、30を過ぎてから大学に入学する人も多い。モラトリアム期が長いと言えば簡単だが、イタリア人全体を見渡して果たして成人という意識があるのか疑問である。30過ぎても親との同居は当たり前、離れて暮らしていても必ず連絡を取り合うし、マザコンの国と言われるくらい親離れ、子離れができない。ある意味親の教育自体が「成人なんてしないで子供のまんまでいてくれたらそれで良い」みたいな感じだ。
 日本でも成人年齢を引き上げれば昨今の就職問題は簡単に片付くのではないか。日本の企業は年齢制限が厳し過ぎる。僕が今一般企業に就職しようとしたらギリか、すでに対象外である。「ええっと、それって成人には問題外ってことか?」となる。その癖4年生の大学を出ている人間を取りたがる。つまり賞味期限は22〜26歳までである。確かにその年齢は成長幅が著しい時期だ。その時期に新人を取って、人材を育てておきたいのはわかる。しかし、その会社が潰れないという保証は何処に?例えばWordやExcelの使い方を覚えたところで、Microsoftのofficeが標準で無くなる可能性は?となるのだ。
 業種が変化しないのであればスキルは伸ばすことができる。そういった人たちは良い。少なくとも「この仕事をしていきたい」とか「この仕事しか、俺には能力がないから」と言う場合は仕事に対して既に意思が生まれている。しかし漠然と「就職したいんだけれど、何の仕事をしたいのかわからない。自分が何をしたいのかわからない」なんて事を言われた場合、「働く」重点が変わってくる。
 「生活に苦しい」のであれば「収入」に重点を置き、「とりあえず」であれば「とりあえず」で簡単にできる仕事をするべきだ。僕が育ってきた環境の様に、自分が望まないスキルは基本的に手に入り難い。そしてその環境を形成できるかできないかが、僕にとっての「成人」の秤になる。一般的に選択された状況は、日本では中学校までだ。それ以降は自分で選択可能な人生である。その選択ができなければ、いつまで経ってもコミュニティも環境もできあがらない。
 「就職」とは自分のスキルとアビリティ、つまりは技能を生かして仕事をし生活することを言う。手に職をつけるのであって、自分の居場所を求めることではない。就職セミナーに欠けていた起業という視点。それこそが日本の「就職」という意識に最も欠けていることだと思われる。自分の人生に覚悟が無ければ選択もできない。コミュニティも環境も形成できず、成人できない。結果としてスキル・アビリティも得られない。日本の「成人」が30代に引き上げられれば問題は無いが、相変わらずの新卒人気。大学受験の様に「このまま大学に入って良いのかなぁ」と迷うのが当然のオチだろうか。
 この話も、それぞれにいくらでも掘り下げられるけれど、「学問とビジネスと」と「夢ねぇ」に関連させると全体的にはこういう意見になるだろうか。
 最後に何故仕事に対して楽観的なのか。KENさんの言う様に、僕は自分の人生の為だけにしか行動していない。だから長生きなんてまるで考えていない。別に今の生活に完璧に満足している訳ではないけれど、「明日死ぬとしたら?」と言われても「今の生活を」と答えるに違いない。「今の生活に満足していないのに?」と言われても「今望める最良の生活はしているから」と答えるしかない。極端な例*2であって、「生と死」の問題は別。とにかく「今後の蓄え」とか「老後の生活のために」なんてまるで考えていないので、仕事というものに対して楽観的なのである。
 と、書き終わって読み返してみると、KENさんにトラバしなくても良いような……。あまり関連性が無いかもしれない。しかもKENさんの言う労働力としての比較優位には全く以て賛成であるし、資格が商品に成らないってのもそれが現実だろう。ただ僕の場合、「今の自分には何もない、何をしたいのかわからない」と言われた場合には「何かをしたくなるまで待てば良い」と言う。もちろんそれには覚悟が必要なわけであって、そういう意味で読めば関連性はあるか。それにしてもダラダラと書き過ぎた。

*1:特に小学校タイム。17時の時報とか

*2:こういう例を出すと、間違いなく「明日死なない様に行動しろよ」と言われるかもしれないが、これは確実に明日死ぬという例え話である。主観だが前提条件を文面通りに受け取れない人間は文系に多い気がする