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最近は写真日記。

ハウルの動く城:宮崎駿

 実は上戸彩のインストールとどちらを見ようか迷ったが、時間の関係で結局ハウルを観賞。感想としては、もう一度見たい、もしくはDVDでゆっくりと見たい作品である。本編2時間ながら、様々な問題が詰め込まれていて、しっかりと整理しながら見ないと、訳が分からないまま終わってしまう。千と千尋ではガッカリさせられたけれど、今回は充分楽しませてもらった。
 以下ネタバレを含む。
 期待していなかった、木村拓哉の声。考えていたよりも、違和感が無い。登場シーンでは、実際のキムタクのキャラとハウルが被って見えてしょうがなかった。倍賞千恵子の声も特に問題は無し。確かに少女ソフィーの声は島本須美が演じた方が良かったかもしれないが、それではナウシカと被り過ぎるだろう。個人的に気になったキャラは、マルクルである。何故、彼がハウルの城にいるのか。何故家族にこだわったのか。ソフィーに「家族だよね?」と泣きついている姿は、血縁関係にこだわらない僕には受け入れやすかった。マルクル視点での物語でも面白いものができそうである。
 「で、呪いって解けたの?」と一緒に見に行った子に聞かれた。千と千尋ではとにかく名前にこだわった宮崎駿。子供向けに作ったと言われる通り、人格形成において「名前」というのは重要な問題である。アイデンティティもあるが、森博嗣が指摘した様に、「名前をつけ、それを認識する能力」というのは言語能力の根幹を成している。
 しかしこのハウルでは、そんな前提を飛ばしている。「自由に生きるために」、ハウルはいくつもの名前を持っている。千と千尋の様なシンプルな世界観ではないのだ。ただ呪いに関しては、千尋にかけられた呪いと、ソフィーにかけられた呪い、どちらも解呪に必要な要素は同じだった様だ。ソフィーが自分の生きたい様に生き始めた時に、呪いはその力を弱める。ソフィーが自分の望む様に行動した時に、ソフィーは元のソフィーに戻るのだ。呪いをかけられた姿が老婆だった理由はそこにあるのだろう。カブが案山子であった様に、呪いは「決められた存在に変身する」わけではなく、各々に依って異なるのではないか。呪いをかけられる以前のソフィーは既に将来を諦めてしまっている。つまり生活はしているが、生きようとはしていない。死ぬまでの人生を歩むだけである。そんなソフィーの生活を具現化したものが老婆という姿なのだろう。
 物語の途中から髪は白髪、もしくは星の色のまま、ソフィーの姿は少女に戻る。そしてその髪の色のまま、呪いに触れることもなく物語は終わる。それが明確に何を示しているのかわからない。以前とは違うということを表しているのか、未だに呪いは完全に解かれていないということを示しているのか。ただ、1つ結びが解かれた時点で、ソフィーにかけられた呪いは完璧に解かれたと僕には見えたので、過去を知り、現在まで至った、生まれ変わったソフィーの象徴だと僕は考えたい。
 主要キャラ以外にも見るべきところは沢山ある。作中の戦争とは何だったのか。その中での科学と魔法の共生。魔法使いは、科学者同様、結局兵器のためなのか。マダム・サリマンが考えていた青写真は何だったのか。キャラ萌えもできる。物語の再構築もいくらでも可能である。続編を作ろうと思えばいくらでも作れるだろうし、作らずに受け手が各々で反応する様な仕組みなのかもしれない。もちろんそれは宮崎駿の管轄ではなく、鈴木プロデューサーの考えることなのだが。
 物語、作画技術や演出など、まるで千と千尋ハウルのための布石であったかの様な作りである。もちろん当初からそんな作品作りはしていないだろうが、ハウルを見る限り、千と千尋は習作の様な気がしてならないのだ。随分と長い作品だなと感じて時計を見れば2時間も経っていなかった。終わってみればたった2時間の作品である。しかし、まるで魔法をかけられたかの様に、その2時間が長く感じるのだ。もしかしたら、それが本当の呪いなのかもしれない。