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最近は写真日記。

アントワープの6人じゃなくて代官山の3人とか

 研究室の友人と高校の頃の先輩、そして僕を含めた3人で、僕の地元で久しぶりに再会。研究室の友人は、今は市役所の文化財課で働いているが、来年度からは引き抜かれて他に移ることが決まっている。先輩の方は、高校バスケ部の1コ上の人で、現役の頃から仲が良かった。高校の頃からオシャレさんとして有名で、大学を出てから代官山でショップを開いた。
 彼ら2人を引き合わせたのは、大学を卒業する直前だったかと思う。それ以来、幾度となく代官山の先輩の店に3人が集まることが多くなった。他のショップにも友人の友達が働いていたりで、知人が増え、色々な店で道草をした。僕の渡伊が確実に成った時、その友人が「僕も地元に帰ろうかな。東京に居ても良いことないし…」と冗談混じりに呟いた。それを聞いた先輩が「帰っちゃダメだよ」と真面目な顔をした。その時、僕は携帯で他の人間と話していて、彼ら2人の間でどんな会話が交わされたのかは、詳しくは知らない。ただそれ以来2人の距離が、僕を介さなくても良い位には近づいた気がする。
 僕は自分が人に会うことに関してはあまり積極的ではないが、人と人を会わせることはかなり好きだ。既存のコミュニティから、新しい場を作り上げることが楽しいのだ。だから僕を介して知り合った人々が、仲良くなっていくのを見ているのは、ちょっとした幸せだったりする。
 ある時友人が、就職に対して疑問を感じていた。多分「学問を中心に生き続けて、これから現実的に生きていけるのか?」という壁にブチ当たっていたのだろう。それを見ていた先輩が「いやー、俺も取り柄とか無くてさぁ。本当にこのままで良いのかって思うよね」と自虐的な笑いをとった。友人は自分の望む職に付けないことに苛立ち、先輩は何処かしらで、自分の置かれている状況に疑問を感じ始めていたのだと思う。
 それから1年後、信じられない様なメールがイタリアに居る僕のところに送られて来た。先輩が単車で事故ったというのだ。しかも飲酒、居眠りで、酷い事故になったそうだ。ただ他人を巻き込んでいないだけ運が良かった。1週間の意識不明、1ヶ月間のICU入院。生命蘇生手術が行われたそうで、かなり危険な状態だったという。顔面骨折に小腸の摘出。身体的にはある程度回復しても、精神的なダメージは想像を絶するものがあり、入院中の記憶はかなり曖昧らしい。
 最初、顔面骨折故に口を開くこともできず、人と話すこともできなかったそうだ。外界を遮断し、ふさぎ込んでいたという。それから筆談でコミュニケーションを取るようになり、手術とリハビリを重ねて、また話しが出来るようになった。それから1ヶ月ほどして自宅療養ができる程に回復して、僕にメールを送って来たのである。
 そのメールを読んだ時、僕が知っている以前の先輩と、そのメールを書いた現在の先輩が、同じ人だとはどうしても思えなかった。それ程に何かが変化していた。もちろんその「何か」を具体的に表現できる力量も無いし、かといって、抽象的に言い表せる言葉を僕は知らない。ただ、そのメールを通して読み取れる人間は、僕の知っている以前の先輩ではなかったのだ。
 その後直ぐに友人にも連絡し、僕が帰国した際には必ず3人で会おうということになった。2004年の夏、僕が帰国した際に3人で食事をする機会に恵まれた。先輩の顔は現代整形技術のおかげで、腫れはあるもののほとんど元通りに成っていた。それでも顔にはテーピングがあり、まだ小さいボルトで骨を固定しているのだという。いつもの様にトークは軽いながらも、何かが違った。「暗い話しならばいくらでもできるけれどね。ICUにいて、隣のベッドにいた人が次の日には亡くなったり。俺みたいに事故った人間が、外傷は全然軽いのに、打ち所が悪くて半身不随になってたり。でも、そんな話ししたところで意味ないでしょ?やっぱりそういうのはネタにしないとね」と根本的な何かが変わっていた。
 その時彼は「もうアパレルは辞めようと思う。今回の経験でね、どうしてもやってみたいことができたんだ。理学療法士までいかなくても、介護士とか、とにかくそういった仕事をやりたいんだよね」と目を輝かせていたのだ。そして友人もまた、今のお役所仕事に嫌気が差していて、丁度他から仕事の誘いを受けており、身の振り方を考えていたのだ。その時はそのまま、それぞれの将来の抱負を話して別れた。友人とは研究室仲間なので、そういう話しを以前にもしたことがあったが、先輩とは、そういうコミュニケーションを取るのはその時が初めてだった気がする。正に別人に会った気がした。
 もちろんそれまでも「ショップをやりたい」という話しを聞いて、それを実現した先輩を見てきた。何かをしたくて、それを実現するためにただ行動するのとは違う。その時の先輩には、ただ主体性を持ってそれを実現するという枠組みを越えている何かがあった。かといって、神懸かり的な自信でもない。言うならば「死」を覚悟した人間の意思の強さを垣間見た様な、そういう感覚かもしれない。
 そして先日の再開。先輩はあれから職業訓練校に入り、コンビニでバイトしながら老人ホームに研修に通っているという。来月にはヘルパー2級の免許が取れるとか。友人もまた来年度からの仕事を見据え、色々と画策している様だ。学問に携わって生きていくことに覚悟ができたのかもしれない。
 代官山で会っていた頃を思い出した。あれからまだ何年も経っていない。それでも彼らは成長し、スキルを上げ、自分が歩む道をしっかりと歩き出している。1人は生と死を通して、自分の道を見つけ、1人は学問を通して、在るべき自分を模索した。彼らを見ていると羨ましいと思う。彼らは時間と共にしっかりと歴史を刻んでいるからだ。物に頼らず、自分の言葉を以てして、自己を高めている。
 代官山で話しをしている時も、ショップに備えられていたミネラル・ウォーターで何時間も話したが、今回は僕の地元駅の地下街だった。自動販売機で飲み物を買い、通路中心に据えられたベンチに座って、時間も忘れてしゃべってしまった。いつかは温泉にでも行ってゆっくりと話しをしたい。僕ら3人にそんな日が来たら良い。もちろん温泉くらい各々の休みを合わせればいくらでも行けるだろう。しかしお金と時間の問題ではないのだ。心からその状況を楽しむには、きっと僕らには足りないものが山ほどある。だからまだ道端で良い。僕らが会って話すのは、そういった場所がまだ相応なのだ。まだ僕らは身体を休める程には疲れてはいないのだから。