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最近は写真日記。

バスケ部とフットワークと副キャプテン

 中学校で毎週ミニバスに参加していたものの、基礎がない為に初心者同然で高校でバスケ部に入った。実際に入部してみて、バスケ部を舐めていた自分に気がついた。それまで「バスケ部=ドリブルが上手い」くらいにしか考えていなかったが、バスケ部にとってボールは二の次だということを思い知らせれた。オールコートバスケ、特に高校バスケは走れないと意味が無い。大学バスケであればハーフコートのセットプレーが多くなるが、高校バスケは速攻が基本である。
 速攻の状態でドリブルをつけばそこでスピードが落ちる。パスランで繋いでノードリブルでゴールまで持っていくのが理想だ。3メンにしても、オールコートの3対3にしても、僕らの練習はドリブル無しが基本だった。つまりテクニックなど必要とされていなくて、如何にノーマークを作るかが大切だった。「バスケは引き算なんだよ。最後にノーマークの1を残せばそれで良い」というのが顧問の考えだった。
 練習もフットワーク重視になるので、NBA好きやハーフコートで1対1好きの人間には耐えられず退部者が続出。当初30人いた入部者は2年に上がる頃には10人程度になっていた。僕は、小学校からミニバスに参加していた人間にはテクニックでは敵わないと、スキルを伸ばすことにあまり重点を置いていなかった。派手なプレーよりは地味なプレーを目指した。高校3年間では、それくらいしか自分を生かせる道は無いと思ったのだ。基礎練習を繰り返して、兎に角ジャンプシュートの確率を高められる様に努力した。ちなみに練習時間内でもガード・フォワード陣は1人300本のシュートを打たなければならなかった*1
 上級生が引退する頃、ポイントガードでボールコントロールが上手く、試合中でもポジティブな友人がキャプテンになった。僕は副キャプテンになり、チームメイトと顧問の橋渡しをする様になった。これはバスケが上手い下手ではなくて、ただ単に声が一番大きかったからとか、フットワークでは手を抜かなかったからという理由もあるのだろう。
 残念だったのはこのチームで3年最後の大会に出られなかったこと。僕は2年の終わりには留学してしまったので、中途半端にこの代と別れてしまった。帰国してから1つ下の代に加わり最後の大会にも出たが、何だかあっけないものだった。
 こんなことを思い出したのは、週末バスケをしていて、息切れをする前に身体が重く感じられたからだ。現役の頃は肩で息をしていても、身体は動いた。肺の酸素が無くなっても、普段の練習で走り込んでいるために、筋肉に多く酸素が含まれていたのだろう。あの感覚は何とも言えない。2時間近くダッシュを繰り返し、10分ゲームでオールコートゾーンプレスをやっても、身体が疲れることがない。肺が悲鳴をあげていても、足が前に出る。それが今では1時間動いただけで、足が重い。本気でダッシュしたわけでも、腰を落としてディフェンスしたわけでもないのに。こういう衰えはただただ物悲しい。衰えていく自分を目の当たりにするのはある意味恐怖である。
 ゲーム後、当時を思い出してコートの隅でシャトルランをした。身体に切れはないし、スピードも出ない。おまけに2度目のシャトルランの後に気分が悪くなって、へばってしまった。当時と同じだけ走っても現役には戻れない。同じ練習量をこなしても、身体は若さを取り戻さないのだ。10年で僕は身体的な若さを失ったけれど、それに見合うだけのものを手に入れたのだろうか。これから10年でもっと身体的な若さを失っていくし、そんな自分に失望をするのだろうが、それに見合うだけのものを手に入れられたらと思う。

*1:3人1組になって1000本シュートを打つ