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最近は写真日記。

ジュピター・ジャズ:SPACE LION

「君は仲間なんていらないって言ったけど、僕は同志って言葉に惹かれるんだ。涙が出るほどにね」

 カウボーイビバップ、ジュピター・ジャズのグレンの言葉。「君」はフェイを指していて、フェイは「1人よ。仲間なんていらないし、そんなの持つもんじゃないしね。余計な気遣っちゃうし」と言っている。
 帰国*1が迫る度に、いつも考える「地元」という存在。人に依っては「地元の友達は皆待ってるから」と言う人もいる。しかし僕にはそういう感覚がわからない。僕にとって「地元」は在っても、「地元の友達」という「地域限定の友人」は居ないからだ。もちろん「地元」は「地元の友達」を含めた風景を指すのだろうが、僕の場合はあくまでも「地元」は「地元」であって、そこにいる「特定の人間」を指して、つまりは自分の知るコミュニティだけを指して「地元」とは言わない。
 この根底には、僕の中に「地元の友人」という繋がりに対する反発がある。まず僕は基本的に集団というものが得意ではない。「集まる」とか「みんな」とか言われると、「ああ、じゃあ、また今度で良いよ。個人的に連絡するから」となる。一気に情報収集できるのは良いが、結局は断片的になるので、結果的に集団の時に集める情報と、個人的に取得できる情報ではあまり差がない。もちろん「集団の中にいる個人」と「個人での個人」では変化が生まれるが、本質が変化するわけではないので、結局は同じことだろう。
 中学まではいわゆる地元繋がりの、要するに保育園・幼稚園、小学校、中学校の同級生たちとしっかりと関係を保っていた。高校1年目くらいまでは、地元友達の集まりには参加していたが、そこに自分が求めているものが無いことに気がついた。
 「僕らはこうやって同じ土地で育ったから繋がっているけれど、それを無くしてしまったら、否、無くしてしまっても、僕は彼らと、今みたいな関係性を築きたいと思うだろうか」と考えた時に、血の繋がりに嫌気をさしていたはずの自分が、今度は土地に縛られていることに気がついた。よくよく考えてみると、それ以外彼らと自分を結びつけているものが思い浮かばなかったのだ。もちろんその背景には土地がきっかけになり、出会いがあり、そうしてお互いの関係、つまりは歴史が築かれるという流れがあるが、要するに、それだけしか残らなかった。
 というのも、話題の中心のほとんどは「コミュニティの歴史」で、それをネタにして楽しむだけで、その歴史を知らない人間にはどうでも良いことだらけなのである。つまりはコミュニティの外、地元じゃない人間が来た場合には、コミュニケーションの土台が欠けているために、会話がスムーズに進まない上に、外から来た人間にはネタにもならない。おまけに僕の地元の人間たちは、かなりの頻度で集まっており、新しいコミュニティよりも、地元コミュニティを大切にする人間で固められていた。強引な言い方をすれば、地元コミュニティを大切にする人間だけが、結局地元コミュニティに固執したのである。
 これは海外に出ても大なり小なり同じだろう。例えば日本人は日本人コミュニティを大切にする人が居れば、それに固執しない人もいる。かと思えば、関西人だけで集まるのを好む人もいれば、関東人だけを好む場合もある。イタリア人で例を挙げれば、例えばナポリより南の人は、同郷の人で固まる傾向にあり、日本のキャンパスライフとは異なり、大学で新しい友人作りに励むというわけではない。つまりは平日は大学のある街にいるが、週末になると地元に帰り、そこでの友人たちを「友達」と感情を込めて呼ぶのである。
 話が大きくなり過ぎた。話しを戻すと、要するに僕は「地元の友人」の集まりに、高校1年後半から顔を出さなくなった。かといって高校に新しいコミュニティを見出したからでもない。幼なじみとは時間が合えば遊ぶし、高校の友達とも遊ぶが、それは「個人的に」であって、コミュニティに参加する様なものではなかった。機会があれば、それぞれの友人を紹介したりして、僕は特に「地元」「高校」というカテゴライズはしなかった。幼なじみというカテゴライズも、後々になって「ああ、僕らは世間一般で言うところの幼なじみなんじゃねぇの?」って勝手に解釈して、「説明も面倒だから」とそういう風に僕の中で決めた。なので「地元の」「高校の」「大学の」という言葉は説明以外の何ものでもなく、それは別にコミュニティとしての名前の役割を担っていなかった。ちなみにその幼なじみたちは「地元」には居ないので、言うなれば「地元の友達」ではなくなっている。
 しかし「地元の友人」というのはやはり「地元」というだけあって、集まり易く、それ故に結束も固くなるのだろう。何故か「地元の友達」は、他の友人よりもプライオリティが高いのである。「お前は新しい友達と、地元の友達、どっちが大切なんだよ?」なんて言われたこともある。何だか「新しい彼女と、古い彼女、どっちが好きなの?」と聞かれている感じである。関係を強制されることほど不快なものはないので、それ以来土地、時など「人間」以外のものに縛られるコミュニティには参加しないようになった。オーストラリアでも日本人コミュニティがあったが、帰国してから僕はまるで集まりに参加しないので、「お前はもうオーストラリアの友達じゃない」と言われた。
 それでも連絡を取り合う友人はいる。地元にしても高校にしても、大学にしても、海外にしても、そういった縛りなくして、自分から繋がっていたいと思える相手にはやはり個人的に関係を保とうとする。ここら辺は以前「個人かクラスか」id:ain_ed:20050502で書いた。
 今でも帰る度に「地元の友達」には会う。行動範囲が「地元」なのだから、必ず会う様にできているのだが、彼らの行動範囲はまるで広がらない。地元密着型で、関係を継続させていることは素晴らしいとは思うが、あまりにも仲間意識が強過ぎて、仕事も一緒とか言われると、それはやり過ぎだろうと感じる。個人を主体に生きる僕には到底理解が及ばない人生なのである。そうやって年を取っていくのも老後が楽しそうではあるが、僕の人生の楽しみはそこにはない。
 またまた話が大きくなり過ぎた。話をグレンに戻そう。仲間というものに僕はあまり興味がない。「仲間だろ」とか言われると「えっと、いつから?それでいつまで?具体的にお願い」と言いたくなる。しかしグレンの言うように、同志というものには憧れる。大辞林に依れば「仲間」という意味合いも含んでいるが、やはり志を同じくしたものと捉えたい。つまりは心に決めていること。決意していること。それを目指している人には、親近感を感じる。それは何時か何処かで出会っていなくても良いのだ。今こうして僕が考古学を思うように、世界中の何処かでやはり同じ志で学問を目指している人がいれば、僕にとっては同志なのである。場所や時間が一緒だから仲間になるんじゃない。偶然なんかで決まるような仲間じゃなくて、そこはやはり自分の力で同志に出会いたいのだ。
 ビバップのメンバーもそうだ。それぞれバラバラで、デコボコで。星は1つ1つ輝いているけれど、それはお互いに反射しあって、1つ1つバラバラだからこそ輝くのだ。スパイクは実際最後まで自分の志を貫いた。彼にとっての「生きた女」はジュリアでしかなかった。ビバップ号の中にいた自分を「覚めない夢でも見ているつもりだったんだ」と表現している。ビバップ号というコミュニティは結果的には彼の本質に影響を与えなかった。そういう意味で、ビシャスへの復讐のためだけに生きたグレンとは同志だったのかもしれない。まるでグスコープドリの様である。
 僕はもちろんその時々の出会いを大切にしたいと心がけているけれど、星の王子さまが次から次へと、自分の足で宇宙を飛び回った様に、「その場」で妥協したくない。SPACE LIONという名前は、雄ライオンが旅をする姿*2をイメージしたものだろうか。現実の生態は違うけれど、やはりライオンのイメージは百獣の王であり、群れを成すというイメージは薄いのである。どこまでも旅ができる様に。星の1つであるように。

*1:休み中の一時帰国

*2:生態としては雌メインの群れに雄ライオンが入るようだ