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最近は写真日記。

純愛

 高校の現代文の教師が産休に入る前に、最後の授業で、「これから、あなた達は色々なことを経験するでしょう。1つ、私があなた達に言えることがあるとすれば」と、彼女は少し考えて、「死ぬほど人を好きにならないでください」と1つ声を張り上げて、そう言ったのでした。高校1年生が終わる頃だったと思います。僕は中学時代、シェイクスピアばかり読んでいたので、僕にとっての純愛とは、ロミオとジュリエットで描かれたそれと重なっていました。
 先日、相も変わらず「結婚」というものに対しての想いを、未婚の友人と話しました。というのも、今日はある友人の結婚式で、イタリアでの結婚式に呼ばれるのはこれで2度目になります。花嫁は日本人。花婿はイタリア人です。ライスシャワーの下で、彼らは幸せそうに笑っていましたが、そのお話は、また次の機会に。
 兎に角、その未婚の友人が「じゃあ、恋とか愛って、君にとってなんなの?」と、僕に質問をしました。僕にとっての愛は、「自己愛を超えるもの」であり、恋は「自己愛の範疇」であると答えたのです。すると友人は「それは、どちらも自己愛の範疇なんじゃないのか?」と言われましたが、確かにそれはそうなのですが、僕が何かその二つに区別をつけるとすれば、やはり自己愛の内か外かで区別をつけることになるのです。
 「僕には考古学があるから、それを続けることが僕の自己愛だよね。考古学を捨てる程に誰かを愛してしまったら、自分の全てを捨てられるほどに、他人を愛してしまったら。例えば親は子供の為に、命を捨てられるでしょう?全てとは言わないまでも、そういう親はいる。それは自己愛から家族愛に変化している」そこまで、言って、僕は大事な、僕の中での前提を言い忘れていたのでした。「人が持てる愛は1つしかないと思う。自己愛でも恋愛でも、家族愛でも、人類愛でも」だからこそ、自己愛を超えない限りは、恋愛にはならない、と僕は考えるのです。
 ロミオとジュリエット、双方にとって、どちらも掛け替えのない存在でした。お互いが世界の全てだったわけですね。どちらもが「ロミオの居ない世界ならば生きてる意味はない」「ジュリエットが死の世界に行くのであれば、僕も死の世界へ」と、自己の生と死は、ある意味既に、恋愛に支配されているわけです。言ってしまえば、死が二人を分かつのではなく、死に依って恋愛が成就した観さえあります。これが僕にとっての純愛です。
 それでは自己愛の場合。僕の好きなハムレットが良いでしょう。「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と日本語訳されますが、僕の中では「このまま、生かされるのか、それとも、生きるのか」と読んでいます。「生きるのか」とはもちろん、復讐を果たし、思いを遂げる、ということですね。簡単に言ってしまえば「何もせずに寿命まで殺した自分を生きるか、思いを遂げて短い生を生きるか」ということです。
 彼は結局復讐を果たし、死に至るわけですが、これもまた自己愛の成就だと僕は思っています。しかし、もしハムレットがオフィーリアに、オフィーリアがハムレットに抱いた様な恋愛感情を抱いていたら、話は違ったでしょう。オフィーリアは、ハムレットを、正に「気が違うほど」愛していたわけです。ハムレットももちろん、オフィーリアを愛おしく思っていたことは確かですが、自分の成すべきことのために、自己愛が恋愛感情に勝ります。結果的に自己愛で終わったとも言えますが、どちらにしてもプライオリティは自己愛にあったわけです。復讐などどうでも良くなる程にオフィーリアを愛していたのであれば、二人で狂気を演じていれば良かったわけです。もしくは、「生かされて」いれば、恋愛は続いていくわけです。
 僕は考古学を続けます。それに対して、大げさに言えば命をかけているわけです。死んでこそ、というわけではありません。そうしている自分が幸福に近づいている気がするからこそ、結果的にそれを続けることができるのです。ハムレットの「生きる」という意味に当たるでしょう。寿命を伸ばすための人生ならば、もしくは安定した人生を送るためであれば、他にも選ぶことはできますが、そこに僕の望むものは、現段階においては見出すことができないのです。
 「死ぬほど人を好きにならないでください」と言われた当時、色々と考えました。彼女がどういう意図でそれを言ったのかは、確実なことはわかりません。人に依っては、自己愛と恋愛が重なる場合もあるでしょうし、恋愛という名の自己愛でしかなかったりもしますから。また「簡単に命を投げ出さないで」という意味だったのかもしれません。
 ただそういう欲求が僕の中にある、というのもまた事実です。何処かで考古学を捨てられる程に人を愛せたら、という思いもあります。もちろん考古学を続けることが、僕のアイデンティティに繋がることですが、それすらも超える様な恋愛があれば、という夢はあります。それがロミオとジュリエットで語られています。「名前の中に何があるというの?私たちがバラと呼ぶものは、ほかの呼び方をしたって、同じようにかおるでしょう」と。これは具体的にはモンテギューとキャピレットを指していますが、僕はこう思うのです。「人間の言語能力、言語的転回さえも超えるような感情のゆり動きは、何事にも変えがたい」と。僕は言葉を大切にはしますが、その力を信じていません。なぜならその根本にある感情を信じているからです。ただそれを伝えようとするには結局のところ言葉に頼るしかないのですが、ほとんどの場合、その言葉の段階でコミュニケーションが途絶えてしまうのです。つまり言葉さえも超えるような感情のゆらめきの可能性は、そんなものをも必要としない出会いと言う他ありません。正に奇跡です。運命的な出会いというのは結果論であって、本人たちにとっては、運命や偶然、必然はどうでも良いことでしょう。
 つまり僕は自己愛の成就を望みながらも、純愛という奇跡を夢見ているのです。だからこそ社会システムとしての結婚が上手く飲み込めないのでしょう。噛んでいる間に歯に引っかかって、吐き出してしまうのです。だから、それを丸のみできるほどのものでなければ、僕は結婚できるとは思えません。何処かで神聖視していることは確かです。結婚が聖域という、非現実的な感情もあるのだと思います。
 こうして言語化する度に、自分の文章力、語彙の無さが、以上の事柄を矮小化していることは確かですが、その外側に伝えたいことがあるというのも真実なのです。言葉の内側では無く、外側にあるものが伝えられたら良い、という幻想もまた、もしかしたら純愛に似た夢かもしれません。そう考えると、僕は夢見がちな、というより、夢しか見る事のできない人間になるのですが、それはそれで面白いので、今のところ「自分を死ぬほど好き」ではあるけれど、もしかしたら「人を死ぬほど好きにな」っている自分を、そういう並行世界を想像しながら、今日の結婚式に参加したのでした。