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最近は写真日記。

自殺の善悪

 via id:tetsu23:20050729。結論から言えば、僕は「自殺は悪い」とは思っていない。本人が自分で決めて行動した結果であれば、それで良いと思っている。
 id:tetsu23さんの記事の中で、

しかしではなぜ、キリスト教では自殺が悪とされたのか。

 という疑問がある。キリスト教では自殺は「悪」とされているが、何故そこまで忌み嫌われるのか。僕はずっと「人間に許されて、神に許されていない行為だから」だと考えていた。神は自殺できない。つまりは人間にだけ許された自由である。渚カヲルが「人間に許された唯一絶対な自由」と言った理由はそこにあるのだろう。残される世界を考えず、死後の世界をも厭わず、自分の人生を終わらせる。隣人を愛し、信用する宗教観では、正に神への冒涜にあたる行為だろう。
 社会的にみれば消費者、生産者、労働者が、自殺することに依って、受動的にではなく、能動的に離脱するわけである。自殺者が増えればそれだけ機能が低下するわけで、それは共に社会を形成するものからすれば由々しき問題だろう。
 しかし倫理的に許し難い行為であっても、人は自殺することができる。今こうして生きている僕でさえ、首を切れば一瞬で人生は終わる。しかしそうすることはない。死に至る病は、一切の希望を断たれた絶望であると言うが、僕が自殺をせずに生きているのは、正に未来に希望を感じているからなのかもしれない。僕が世界を否定し、人を信じられなくなり、夢見る能力を失ってしまったとしたら、自殺しないとは言い切れないのである。残される人間が悲しむから、という理由では、世界に絶望している人間を引き止めることは困難である。
 ガウディの夏を思い出す。「私たちは彼女を死に追いやったのではありません。ただ存在していただけの彼女に、『自殺をしよう』という意思を持たせてあげられた。つまり私たちは彼女を殺したわけではなく、彼女を自殺するその瞬間まで生かしたんですよ」そういう内容の文章があった。僕はどうしても「生きてさえいれば良い」という考えには辿り着けないので、「意思を持って初めて人間は生きる」という方が受け入れやすいのである。
 ぼくだけが知っているでは、「自殺するくらいならば、相手を殺してきなさい。どちらも同じことだし、1人殺すのも2人殺すのも同じ」と礼智の母親は言う。殺人を犯すことも、自殺することも人を1人殺すことには変わりはない。違いがあるとすれば罰の所在だけである。現世では自殺したものに罰を与えることはできないので、結局死後の世界で罰を与えるしかないのだ。
 絶望している人間にしてみれば自殺は絶対的な自由に値する。それが救いとなり生き続けることができる人もいる。また自殺する人間に嫌悪感を示す人も多い。それぞれの立ち位置に依って、価値観は異なり、受け取り方も違う。今の僕には自殺を善悪で判断することはできないが、人生において、どれだけそれぞれの視点に立てるか、というのはちょっとした希望でもあり、楽しみでもあるのだ。