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最近は写真日記。

「僕」という残像

 日本にいた2ヶ月間で本当に色々なことがあって、それは文字通り人生を変える様な2ヶ月だったのだけれど、それに対しての周囲の反応が興味深かった。「僕」という人間はどうやら「こういう人」というイメージを植えつけられやすい様で、例えばつきあった女性なんかと別れる時には「変わった」とか「地に落ちた」とか言われる確立が高い。ということは、僕は既に地に落ちまくりなのだが、友人にしても今回のことで、後々「勝手にain_ed像を作ってしまってすみませんでした」なんて謝罪のメールが来たりして、「僕」という確固たるイメージが存在しているらしい。
 また7年前くらいから2、3年家庭教師をしていた生徒にも合ったのだが、彼は現在20歳ながらも、未だに当時の「僕」というイメージを持ち続けていた。彼は今年結婚するとかで、そのお嫁さんを紹介されたのだが、「私に会ってからずっとain_edさんの話をしていたんですよ。俺の家庭教師は凄い人だったんだ。格好良くて、何でも知っていて頭良くて、学校の先生なんて比べ物にならないくらい、なんて、いつも言ってました」とべた褒めだったのだが、自分のイメージが勝手にでき上がっていくのは良くも悪くも複雑な思いである。
 ブログにしてもそうだ。アウトプットできるものなんて、既に自分の中で答えが出ているものがほとんどである。もちろんインプットとアウトプットの循環の中の一部ではあるし、アウトプットしながら整理したりするが、アウトプットしている以上、自分の中で持てる答えは出尽くしていると考えられるのだ。とすれば、それはつまり現在の自分とは既に違うものである。「言葉にしようとしている間に、自分はそこからいなくなってしまう」というようなことを森博嗣が言っていたが、考えたものを言語化して、それが相手に伝わる間に、現在の自分は既に違うところにいる。これはもう人間の情報のリードインとリードアウトに時差があり過ぎて、思考をトレースしていくのは困難である。
 つまりは日々共に過ごしていても、人間の内面では何かしらの変化が起こっていて、そこに留まってはいない。残念ながら流動的なものは掴まえ難くて、結果的に既にでき上がっているものに目がいってしまう。「正にカオスなんですね」とは言われるが、自分の中では安定しているので、既に見ているところが違い過ぎる。僕は何より限定されることを嫌う。「ain_ed=こういう人だ」と言われてもしっくりこない。まだ大学生だったころにどういう人がタイプですか?と聞かれて「カオスを愛せる人」と答えたことがあったけれど、天秤は揺れている方が安定している時もあるのだ。
 それはつまり端から端まで「こんなain_ed」を見せて、その平均値を求められても、それはain_edの一部ではあるが、ain_edの全てではない。きっとそれぞれに「僕」という平均値を求めているのだろうし、人を把握する方法としてはそれで良いと思うのだが、自分の想定外の「僕」を見せられて慌てふためかれてもこっちが対応に困ってしまうのである。それは勝手にain_edの平均値がイコールain_edの全てになっていて、おまけにそれは既に過去の自分だったりするので、そんな残像を求められても、そんなところに僕はいないのである。
 周囲を驚かせた発言に依って、また僕のコミュニティは変化するのかもしれないけれど、その発言を「らしいね」と相変わらずの様に対応してくれた幼なじみは流石に幼なじみなんだな、と思えた。