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最近は写真日記。

日々思考すること

 2005年は僕の転機の年となった。まだ後2ヶ月近く残ってはいるけれど、既に変わり目を向かえている。僕の周囲の人間にしても、様々な転機を迎えている。そんな中に、大学時代、研究室の部長だった友人がいる。彼は高校時代野球児で、地元選抜に選ばれ、松阪と対戦する様なスポーツマンでありながら、学問においても優秀だった。僕らが大学を卒業する時、僕はイタリアに、彼は修士に残った。彼は修士論文を書きながら、神奈川のある市の文化財課では既に「先生」と呼ばれる様な存在だった。
 彼は今年その課を離れ、民間の発掘調査機関に就職した。しかし残念ながらその会社は最近経営難で、彼は離職を考え初めている。先日彼からもらったメールにこんなことが書いてあった。

考古学にこだわる訳じゃないんだけど、学問的なことができなくなるのは落ち込みます。研究とか学問的な思考が日常的だったから、な〜んかぽっかり穴が開いた状態。

 彼にしても、僕にしても絶対的な物欲がない。学生時代、趣味にお金を費やす友人達が多いなかで、僕らはそういう消費行動に快楽を見出せなかった。ブランド物を購入したり、車を購入したり、ステイタス化されたシンボルにまるで魅力を感じなかったのだ。労働して金銭を稼げば誰でも購入できる。それは平等に許されている快楽である。これは僕の憶測だが、彼はスポーツマンだった為か、それとも産まれながらにしてか、誰もが到達できるものには、多分興味を示すことができなかったのだろう。僕は残念ながら金額のつけられるものにはそれ程の興味を示すことができないので、彼に空いた「穴」が分かりやすい。
 何度も引用した森博嗣の言葉。「その瞬間に、世界で自分を除いて、誰一人として同じことを考えていない」面白さ。学問や研究を続けていけば、オリジナルに近づくことになる。世界に1人だと感じること。孤独を楽しいと感じる瞬間。その快感。その為に僕らは思考し続ける。でも、何のために?ちなみにその彼はid:KEN_NAITOに会って、一緒にメイド喫茶に行っている。その時にこんな質問をしていた。

彼「いいなぁ、化学は何か世界の役にたちそうですもんね」
けんけん「全然。何の役にもたたんよ。でも面白いからな。それで良いんちゃうの?」

 もちろん、その彼も何かの役に立つからと考えて考古学を続けている訳ではないし、ただ面白いからという根本的な楽しさを知っていて研究を続けているのだけれど、他の分野の研究者に会うと、「役に立ちそうですよね」と言いたくなる気持ちはわかる。それは考古学という危うさからくるものなのだろうけれど、それでも僕らの遊びの時間は終わらない。死ぬまで思考し続けること。それが何よりも、幸福で、満ち足りた快楽を与えてくれる。物質で満たされないことを知ってしまったら、後は思考し続けるしかないのだ。遊ぶために働く。つまりは思考するために働くことになっても、それはそれで良いだろう。日々思考し続けること。僕らみたいな人間にとって大切なことはそれだけだと思う。