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最近は写真日記。

イタリア的:ファビオ・ランベッリ

 著者であるファビオ・ランベッリは現在札幌大学の教授である。専攻は比較宗教論、文化記号論、日本宗教・思想史である。帯には「時代はイタリア イタリア人が日本語で書いた最新イタリア案内」とある。確かに時々「外国語を日本語に訳したような感覚の文」があるが、これは僕の主観的なものであって、全体的には外人が書いたとは思えないような文章である。これは講談社の文章校正云々よりは、ファビオ・ランベッリの奥さんの助力によるものだろう。
 「イタリア的」とは何を指しているのか。その切り口は、「食」「宗教」「歌」「政治」「悲観主義」の5つである。それぞれ気になった箇所を引用してみる。
 「食」はパスタやピザの歴史、そして近代イタリア料理の成り立ちを。特に日本で紹介されるような「イタ飯」ではない、イタリア統一以前からの「イタリア食」、つまりは伝統的家庭料理に対して言及している。

日本人の食習慣に合わせ、イタリア料理のコースは連続的に(順番で)食べられるのではなく、全部同時に食べられることが多い(同じことが中華料理やインド料理に関しても言える)。つまりここで、料理の形態の一つの根本的な違いがみえてくる。日本料理が共時的といえるのに対して、イタリア料理は通時的である。

 「歌」の章では、日本で人気のあるcanzone napoletana:「ナポリの歌」ではなく、musica italiana:「イタリアン・ポッポス」の歌詞から、近代イタリア人の恋愛、失恋、人生、社会などを読み解いていく。

シンガーソングライターやラッパーは、他の歌や有名な文学テキストをしばしば引用する。こうして、エリートの文化生産と民衆文化の回路がたえず保たれてきた。

 カーニバルとユートピアに結びつけて語られる「政治」では、イタリアでは必ずと言っていいほど質問される「お前は左翼か右翼か?」から話が始まり、イタリアの政党、政界の歴史、そして現イタリア首相であるシルヴィオ・ベルルスコーニに言及して話しは締め括られる。

ベルルスコーニのサクセスは次のように説明できると思う。まず彼は、「超人的」指導者の伝統を汲む。多くのイタリア人の考えでは、大成功した実業家は政治に個人的な利益を求めるはずがないから賄賂を取らないだろう、したがって倫理的な政治を行うと期待ができる、そして、実業家としての能力があるので、政治家としての能力もあるだろう、と思ったらしい。

 「と思ったらしい」でついついふいてしまったのだが、この章で気になった箇所は他にある。

興味深いことに、このようなバールの客はほとんど男性である。昔のイタリア人の考えでは、女性は家にいてバールのようなところには行くべきではないとされていた。つまり、男性には男性の友だちと家の外で会う権利があったのだが、女性の場合は、女性の友だちと家の中で会うことしかできないという習慣が昔から存在しているのだ。

 ジャコモ・レオパルディ、ジョバンニ・ヴェルガ、ルイジ・ピランデッロ、アントニオ・グラムシピエル・パオロ・パゾリーニ、レオナルド・シャーシャをあげ、「イタリア的悲観主義」の思想に触れている。

表面上の陽気さ、呑気さ、明るさはイタリア人の感性のごく一部でしかない。

 と、「陽気なイタリア人」の根底にあるものを描いている。その箇所ではピランデッロの「ユーモアについて」の一文を引用している。

ユーモアは火にかけられたカタツムリのようで、パチパチという音を立てて笑っているいるように聞こえるが、じつは死にかけているのだ

 と。他にはグラムシの「理性の悲観、意思の楽天」を引用し、イタリア人の人生や世界観を表現している。
 本書の中で特に興味を抱いた「宗教」。イタリア人と日本人の宗教観の差違。

多くの西洋人(イタリア人を含め)にとっては反対に、日本人こそが宗教的な国民だと思われている。

本来、宗教的な意味があった出生100日後のお宮参り、七五三、受験の祈願、成人式、結婚式、懐妊や出産関係の祈願・儀礼、葬式なども、すべて宗教とのかかわりを持つ通過儀礼である。

この意味では、他の文化に比べて日本人が特に「無宗教」であるとは言えない。ただ、他の文化との決定的な違いは、一般の日本人が己の宗教性については意識していない(あるいは、しようとしない、もしかしてしたくない)ようにみえることである。他の文化(とりわけ、イタリア)における宗教のあり方を考える時には、これは忘れてはならない重要な要素である。なぜなら、イタリアの場合は信者はもちろん、「無宗教」の人もはっきりと宗教というものを意識しているからである。

 人は時々存在しているものから目を背けながら、もしくは「人は見たいものしか見ない」と言われるように目を背けていることさえ自覚せずに、それを批判しようとする。例えば「宗教」と名のつくものには嫌悪感を抱くのに、「常識」「普通」と一般化された儀礼に関しては、その根底に宗教があるものの、何の疑問も持たずに参加する。それは結局のところ「宗教」の実態を知らずに、自分では知らず知らずの内に「宗教」にはまっていくようなものである。食わず嫌いとは違う。「常識」「普通」としてすり込まれたものに何の疑いや批判もなく、ただ継承、享受し、その価値観を他人に押し付ける行為は何よりも不快だと感じる。
 確かに外国に出ている日本人が「宗教は?」と聞かれると「無宗教」だと返答する場面が多い。だが、年間サイクルの儀礼に関しては参加し、それを外国人から質問されると答えられない場合がほとんどである。これは外国人側からすれば大いなる矛盾だろう。「無宗教」だと言いながら、お守りを持ち、初詣、節分、七夕、祭り、仏壇、神棚など宗教的なものと日本人は日々を過ごしている。これは要するに「無宗教」なのではなくて、「無知」なだけではないのか。「無宗教」とは「宗教」を意識した結果であり、「宗教」が自己から切り離されることによって、新たな自己に到達できるのだろう。

4062583372イタリア的 ?「南」の魅力
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