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最近は写真日記。

デイト・オブ・バース:交響詩篇エウレカセブン

 アドロックとエウレカの関係が語られ、何よりもエウレカのスカートの中身がはっきりした。
 ネタバレあり。

「真実を伝えること意外にない。だが現状、この目の前に流れる大メディアが伝える情報こそが真実として大衆の心に浸透している。そこへカウンターを打ち込むことは可能だ。しかしそれは所詮カウンターにすぎない。しかもデューイは賢人会議という旧来の体制に対し、すでにカウンターをはなった。時機を逸した。これからは今までとは違う戦い方が必要だ。メインやカウンターを超えた揺るぎようのない真実が」

 エウレカセブンのキャラの中で格好いいと思えるキャラがいないと、以前コメントに書いたことがあったが、ストナーは格好いいと思えるキャラに近い。第1回目の「学がねぇなぁ。俺の言葉だ」以来、印象が薄かったのでその存在を忘れていた。
 メインとカウンター。サブという言い方をしなかったのは、「それは所詮カウンターにすぎない」という台詞に重みを持たせたかったからだろう。またレントンエウレカのバッググランドの差異をうまく使ってメインとカウンターのギャップを効果的に用いていた。

「家族だよ。誰だって知りたいに決まってるじゃないか!」
「そんなのわかんないよ……」
「何でわかんないんだよ。普通の人間だったら、当たり前じゃないか!」
「……あたし人間じゃないもの……」

 成長を続けるレントンだが、相変わらず視点が定まらない。「誰だって」「普通」「当たり前」という価値観。「自分の考えていることが常識だ」と刷り込みをされていることに気が付かない。これをうまく皮肉っているのがストナーの前述の台詞で、「目の前に流れる大メディアが伝える情報こそが真実として大衆の心に浸透している」とレントンメインカルチャーの表れとして描いている。そしてレントンの価値観を把握できないエウレカ。彼女は「あたし人間じゃないもの」と、自分の考えを述べずに逃げてしまう。これが「所詮カウンターにすぎない」という意味なのだろう。
 つまりカウンターというものは結局のところメインがなければ存在し得ない。否定し続けながらも、否定し続ける存在があればこその存在感とでも言うのか。例えば「俺は他人と同じ様にはならない」と言うのは、結局「自分とは違うように生きている他人」があってこそ、他人との差異を認識することができる。「他人と同じように」とか言っている時点で結局のところ価値基準は「他人」に支配されているわけだが。要するに人間がいたからこそ人型コーラリアンが誕生した。人間がいなければエウレカは人型にはならなかった。そういう意味でカウンターという言葉を用いているのだろう。そしてアドロックこそがエウレカにとっての「自己を認識するための初めての他人」つまりは家族としての役割を果たしてくれた人だった。デイト・オブ・バース、つまりは生年月日はそういうことにひっかけているのかもしれない。
 ストナーのいう「メインでもカウンターでもない、人々の希望となり得るような真実」は、理想論というか、結局「人々の希望」となったところでカウンターやサブが登場するのは防げないだろう。というのも、レントンがメインで、エウレカがカウンターという演出であれば、その2つの融合こそが「真実」というのは安直に思えてしまうのだ。
 またアドロックの死体は発見されていないが、僕はなぜか彼の生存を確信してしまった。コーラリアンに攻撃を受けた際、建物にしても物にしても、えぐり取られた様な形状をしているが、これはその物体が違う場所に「持っていかれた」可能性を示しているだろう。「違う場所」というのがハガレンで言えば「扉の向こう」にあたるが、エウレカの場合ではグレートウォールの向こう側になるのだろう。前回の「あそこには歪んだ空間がある。あらゆる物理法則が無視される空間」と表現していたので、アドロック、そしてダイアンの生存の可能性は高いだろう。
 あと気になったのはタルホのエコーシーン。現代の医療なら妊娠初期では経膣プローブを使用するだろうに、いきなりエコーというのに引っかかった。もちろんエウレカの世界の医療は発達していてエコーの性能が格段に良いという設定なのだろうけれど。
 そしてやっとシリーズ始まって以来の謎が解明された。エウレカのスカートの中身である。ノーパンとか見せパンとか、スパッツとか短パンとか予想はあったが、体育座りをしているエウレカが履いていたのは短パンだった。今までスカートの中身が見えても良い状況は何度もあり、隠し続けたくせに「短パン」って、と落ち込んだ。