apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

そこにある無意味

 「そこに意味はあるのか.」より。

傷心の友人と話しているときに,人の生き死にの話になった.そう,ワタクシはナゼか身近に死が起こった経験が多い.友人が言った.

「アンタの周りにそういうことが多いのは,何か意味があってそうなってるんちゃう?」

そのことなら,今まで何度も自問してきた.しかし答えはいつも徹底的な否だ.

聖書とか,西洋の映画や小説にそういう物語が多いのは確かだ.愛するものに死なれた主人公が,悲嘆にくれた後で自らの使命に目覚める話.自分の為すべきことを自覚した瞬間に,主人公は叫ぶ.

「神は私にこの仕事を与えるために,あの人を天に召されたのだ」と.

そんなのムチャクチャだろう,とワタクシはいつも思う.それは主人公達の自身と誇りに満ちた顔は,ある一つの前提の上に成り立ったものでしかないからだ.それは「自分は選ばれた者なのだ」という思い込みだ.そのようなマインドは結局周囲の人間を「選ばれなかった者たち」として下に見るのと変わらないと思うわけである.

 「何か意味があってそうなってるのか?」と聞かれれば、僕も否と答えるだろう。逆に聞かれても同様だ。つまり、周囲で人が死ぬ事がない、とか、タレント揃いとか。ただこれは多分ケンケンの前提条件があればこその問答だとも思う。

ワタクシはナゼか身近に死が起こった経験が多い.

 ケンケンよりそういった経験が少ない場合、それは「特別なもの」と捉えられる可能性は確かに高い。ケンケンの場合は家族にしても、友人にしても、その「距離」の近さが「特別なもの」と捉えられる要因なのだろう。
 高校に入りたての頃、幼い頃に母親を亡くした友人を「あいつは可哀想なやつなんだ」と表現したクラスメイトに対して、まだ若かった僕は怒りを露にしたことがあった。それを「可哀想」と感じるのは何故なのか。単純に考えれば「両親が揃っている自分よりも苦労したに違い無い」「母親の居ない人生は、居るそれよりも劣るものだ」という思考なのだろう。聞けば、「もし自分に母親がいなかったら」と仮定した場合に、そこに「可哀想な自分」が見えるからこその発言だという。要するに「それは特別なこと」と、それまでに構築された価値観によった判断でしかない。それが「可哀想」か、ましてや「特別なこと」なのか当事者とコミュニケーションを取ることなく自動的に、ともすれば反射的に出てきた言葉でしかなかったのだろう。
 人が死ぬことは特別なことなのだろうか。ましてやその死の特殊性は、影響力はまた別のものだが、自分との距離感だけで判断されるものなのだろうか。人は生きもすれば死にもする。その逆も然り。近くの死には意味を見出せて、遠くの死は対岸の火事でしかないのか。
 ケンケンの中にはそんな意味性はなくとも、どうやらケンケンの「物語」を「読んだ」人間がそういう意味を「自動的に」付加してしまう可能性は高そうだ。

「アンタの周りにそういうことが多いのは,何か意味があってそうなってるんちゃう?」

 これは裏を返せば、「ワタシの周りにそういうことが多いのは,何か意味があってそうなってるんちゃう?」と自然の事象に自分勝手な意味性を与えてしまう危険性を孕んでいる。これを手っ取り早く正当化してくれるのが宗教、得に唯一信教の教えなのだろうが、他人の死さえも「より良く」生きるための糧にしてしまう心理操作には辟易してしまう。
 人間の歴史は死者の図書館でもある。それらの死をどう「読む」のか。また死は日常的なものである。距離に関係なく日々人は死んでいく。問題はそれらの死を、生者にとって都合の良い様に再生し、再構築し、新生させるところにある。つまり「意味があってそうなってる」のではなく、「そうなってる」事実に意味を植付けて何かしらの目的達成のためのツールとして用いるのである。それが例えば人間にとっては死ぬことが明確であっても、死それ事態が不明確であり共有体験できないものであるがために、死を目の当たりにした人間が心の平安を得るためにとか、また国を治めるために死者を英雄に仕立てあげるとか、死人にくちなしとは良くいったものである。
 タイトルの「無意味」にしても、無意味という意味を与えることにもなるのだが、意味のないことはそのまま受け取るべきなのだろう。混沌を愛することができれば、世界は閉じることがないだろう。人間にとって生きることが不明確でも、生それ事態は続くのだから。