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最近は写真日記。

教育破壊

内田樹の研究室より

勉強なんかしなくても、必要があればネットでなんでも調べられると豪語する若者がときおりいるが、私はそういうものではないと思う。
検索するためには検索のためのキーワードを知っていることが必要だ。
しかし、そのキーワードそのものを知らない事項については、検索することができない。
「学ぶ」というのは、キーワード検索することとは別のことである。
自分が何を知らないかについて知ることである。
自分の知識についての知識をもつことである。
それは「知識をふやす」ということとは違う。
「知識をふやす」というのは「同一平面上で水平移動域を拡げること」である。
「知識についての知識をもつ」というのは「階段を上がること」である。
ぜんぜん違う。
学校というのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。
一方、受験勉強は「自分が何を知っているか」を誇示することを生徒たちに強いる。
たくさんの教科を学校が用意しているのは、ほんらい生徒たちに「自分が何を知らないか、何ができないか」を知らせるためである。
世の中には自分の知らないことがたくさんあるんだ・・・と思うことができれば、それだけで学校に行った甲斐はある。
しかし、受験勉強は「自分にできること」に特化することを子どもたちに強いる。
もちろんそれにも意味はある。
それは「自分にできること」があれば、「自分にはできないこと」ができる人々とのコラボレーションを立ち上げることができるからである。
「自分の知らないこと/自分にできないこと」の中に位置づけられてはじめて「自分が知っていること/自分ができること」は共同的に意味をもつ。
だから、「自分の知らないこと」は「知る価値のないことだ」というふうに思い込む子どもを組織的に作り出しているのだとしたら、そんな学校は存在しない方がましである。

 何よりも知的好奇心を排除するところに受験勉強の神髄があるわけで、結果として受験後も「資格を持っている」=「私はできます」という経験に基づかない自信を持った人間を排出することになる。医者とか弁護士とか、そして教師とか。受験、資格用の勉強は結局のところ、それぞれの分野の末端知識をかじることでしかない。上っ面知識とでもいうのか。要するに一問一答であって、一答から全問を見渡そうとする意識は中々感じられない。イタリアで出会った若者たち(高校卒業後すぐにイタリアに来た若者とか)の話しを聞いていると、そう感じずにはいられなかった。表層に捕われて、深層を見ようともしない。もしくはそういう疑問を投げかけても、見てみないふりをするか、興味がないとシャットアウトする。
 学べば学ぶだけ、学ばなければならないものがまた増えることになる。知らなかったことを知ることになる。無知であることを知るになるのだ。だが無知と無関心を混同し、「興味ない」と自分を制限してしまっては、事物は関係を築けない。「浮いた氷、それが君たちの知識だ。だけどそれをリンクできない様な液体、つまりは教育、は意味がないんだ」と言っていた教師を思い出したが、Q&Aで完結してしまう様な知識こそ、まさにネットで調べて終わらせれば良いだろう。ただ実際問題として、完結させるか、拡張するかが課題なのだけれど。それにしても「興味がない」=「意味がない」という思考停止がマジョリティになってくると、やはりやりきれないものがある。