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最近は写真日記。

スキル・テクニック、アビリティ

MORI LOG ACADEMY:才能と技術より。

天才と呼ばれる人たちを何人か実際に知っている。天才がどんな定義なのか、人それぞれだし、僕も特に定義を持っているわけではない。ただ、才能がある人たちに共通することは、常に変化をする、という点だと思われる。「おお、これは凄いな」と思ったときには、もう当人は別のところにいる。「ああ、それはね、昔のことだよ」と言われるのである。優れた才能というのは、そういうものだ。したがって、期待に応えるようなものでは基本的にない。こんなものをお願いします、と依頼して、期待どおりのものが返ってくるとしたら、それは天才による「才能」ではなく、職人の「技術」によるものと思ってまちがいない。

 残念ながら僕の周囲でそういう人間はいない。メディアを通して見ている限りではイチローがそのイメージにぴったりだろう。進化を続けながら結果を出し続けていることは素人目ながらその凄さを感じる。
 10月のことだったか、僕がイタリアから帰国し職場に復帰すると新しい制作メンバーが採用されていた。僕が戻った頃に、彼女は既に勤務1週を終えており、彼女が受けた研修期間3ヶ月と合わせると1ヶ月の勤務経験があるはずだった。だが恐ろしい程仕事が遅く、最低限の制作基準さえもままならない状態だった。それから1ヶ月弱で上から声がかかり話をした。
「スキル、テクニックがないのはしょうがないと思います。そのための研修期間ですから、その時間で学習すれば良いことです。ですが明らかにアビリティが足りないんです。要するにもともとの彼女の能力値が低いがために期待どおりの結果が出ないんです。考えられる処置としては、会社側に余裕があるのであれば、彼女のポテンシャルに期待して、期間を決めて様子を見る。それか、この2ヶ月間でまるで結果が出せて無い、もちろんこの2ヶ月で彼女が学んだこともありますが、これからの成長に期待できないという理由で切るか。とにかく人手不足が根本的な問題ですが、それこそ他人の指導に労働力を割くよりは、目の前の仕事を片付けたいというのが現場の状況かと思います」
 「率直な意見を」と言われ、そう答えた。僕の研修期間は5日間だった。5日間でQuarkの最低限の使い方、ショートカット、制作基準を、完璧とは言えないまでも業務に支障をきたさない程度には覚えた。もちろん他にも使用アプリはIllustratorPhotoshopがあるが、Quark程に使用頻度が高いわけではないので、そこまで高い技術は要求されない。それでも僕の周囲の制作メンバーはそれぞれに得意アプリがあり、得意分野(デザインだったり編集技術だったり)があり、実際のところ僕の持ってるスキルとテクニックなどはほとんど素人同前。その素人同前と比べて劣るレベルでは以上の様に言う他なかった。結局彼女は仕事に余裕のある、他の部署に配転になった。
 これが学問になると話しが違ってくる。スキル・テクニック、アビリティよりも、続けられるか否か、という問題がある。ましてやビジネスの様に目に見える能力や技術では比較できない世界でもある。言うなれば続けられることも能力の一つになる。また理系と違い文系には一定の等価基準がない。どれだけの知識やスキルがあってもそれを評価し得る機械的客観的事物がないのだ。理化学の様に数値化したところで、それは理化学同様の客観的証拠には成り得ない。要するに理化学の様に誰もが認識できる答えを提出することができない。文系からすればその多様性こそが強みになるのだが、その装置を生み出すためのスキル・テクニック、アビリティは、結局その多様性に依って蹂躙(淘汰ではない)され、学問以外の政治的価値で淘汰されていく。単純に考えれば残ったものが自然選択されたものだと言えなくもないが、人為的操作の結果と捉えるべき事態が多々あるものだ。
 翻って労働力は等価である。どっかの記事に「働いたから賃金が発生するわけではなく、自分の仕事が労働先で利益を発生させられたからこそ賃金が発生する、というイメージで労働に取り組むべきだ」なんて青臭いことを書いていた人がいたが、タスクというのは課されるものであって、ワークが細分化されているのは利益が前提にあるからだ。それぞれのタスクを「これが利益に繋がるのか」なんてことを考えてルーチンをこなしていたら能率が悪く、それこそ利益が損なわれる。考えながら仕事をすることは当然だが、考えなければいけないのは利益ではなく効率である。効率の先に利益があるのだ。それにスキル・テクニックが伴わない状態でのタスクは、効率をあげるための経験でもある。要するに最初から利益計上を念頭に置いているのであれば、スキル・テクニックの熟練度が高く、アビリティが高い人を求人する必要性が出てくるが、その求人のために結局企業側は「求人」のための投資をしなければいけなくなるのだ。それこそ、そこに利益があるのか、と問われればそれは結果論でしかわからないことである。芸術分野もそうだが、スポーツでは才能と技術が露骨に影響する。この話しは才能と努力で以前触れた。
 引用文中の「こんなものをお願いします、と依頼して、期待どおりのものが返ってくるとしたら、それは天才による「才能」ではなく、職人の「技術」によるもの」というその「技術」も実際のところ、スキル・テクニック、そしてアビリティが複合的にあみ出されるものである。職人という存在が、「職人に成る」という過程がそういうものなのだろう。