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最近は写真日記。

頭の良し悪し

 僕は身内にウケが悪い。ここでの身内は僕の実の親とか親戚の類。ウケが悪いというのは「頭が悪い」「落ちこぼれ」「できない子」という意味である。幼い頃から僕はそういわれ続け、今でも顔を合わせれば「頭良くないからね」と、汚いものを見るような目でいわれる。確かに僕は頭が悪いかもしれない。だからこそ今でも学び続けているわけだが、彼らのいう頭の良し悪しは結局のところ学歴でしかないようだ。僕には学歴がない。大学を出てはいるが三流私大で、人に誇れるような資格も持っていない。ましてや小、中学校の成績も得意な教科以外は全て平均的、つまりは5段階で3ばかりで、要するに特徴がなかった。もちろん成績だけでの話しではないのだろう。生活態度が悪く、身内に対してろくに挨拶もしないことが多かった(言い訳になるが、子供の頃からそういう扱いをされていると分別がつくようになる頃には、相手にしたくなくなっていた)。
 高校に進む頃には、僕は彼らに対して自分のことを何一つ話さなくなった。自分の意見、自分の進む道、学問的なこと。今でも彼らは何故僕が考古学を学び続け、何故フィールドがイタリアなのかさえ知らない。「理解する」というレベルではなく、本当に知らないのだ。ましてや「何しに今でも大学なんて行くの?早く卒業して働いて一人前になれ」と、勉強イコール学校卒業のイメージしか無く、結局のところ「良い(知名度の高い)企業」に勤めることが「優秀」という考えなのである。もちろんそれはそれで優秀なことには間違いないのだろうが、それ以外は全て劣等としてしまう思考には辟易するのだ。
 頭の良し悪しとは何だろうか。 頭の回転が早い、記憶力がある、知識がある、コミュニケーション能力がある等、それらを総称して人は頭が良いというのだろう。人によってはどれか一つをメインにおいて頭の良し悪しを計ったりもする。それらのスケールとして、現代常識として認知されているのがとにかく学歴だろう。一般的にはやはり高学歴イコール頭が良いとされる。ただこの「高学歴」にも差異が存在して、学部卒業の人間は学部レベルでの大学比較が主な様である。例えば早稲田大学を卒業しました、というのと早稲田大学大学院博士課程です、というのでは研究レベルに雲泥の差があるものの、「早稲田、凄いね」で終わってしまう。もちろん一般就職を考えれば学部卒業段階での大学比較になるのだろうが、教育課程で考えれば差は一目瞭然である。ここでは2種類の頭の良し悪しが存在している。1つは「就職」を考えた場合の良し悪し、2つ目は「自己実現」を考えた場合のそれである。自己実現にはもちろん就職することによって成し遂げられるものも含まれている。要するにどこまでをスパンとするかによって、頭の良し悪しの基準は変化する。
 学校の成績や入試の結果でいわれる頭の良し悪しは、「勉強ができるか、できないかの差」と良くいわれる。「勉強」はもちろん「スポーツ」にも置換することができるし、「仕事」でも構わないだろう。僕が家庭教師をしている時に、義務教育課程が変化したことがあった。1人の生徒は5年間ずっと僕を選択してくれていたのだが、課程が変化するまでは「数学」が得意だったのに、変化後に突然「数学」が最も苦手な科目になった。それだけではなく、他の科目に関して酷く成績が落ち込んだことがあったのだ。つまり課程変化後の一時、その彼は「勉強ができない」子になってしまった。その部分だけを抽出すれば彼は頭が悪い、ということになるのだろう。それでも実際のところ、中学から有名私立校に通い、その後も自分の望んだ大学に入学し、大学在学中に長期交換留学生として海外に留学している彼を頭が悪い、という人はいない。
 話しを自分に戻す。僕は血縁の外に出ると評価が一転することがしばしばある。基本的に褒められて伸びるタイプ(本当に伸びるかどうかは別問題だが)なので、「トップクラスの人材」といわれたりすると発言者の思惑通り、僕は良い気分になるし、「努力しなくても大抵のことは何でもできる」といわれると、大抵のこと以外をしたくなったりする。自分の頭の良し悪しなど、自分にはわからない。血縁の評価も正しければ、他人の評価も正しいのだろう(願望)。「僕は頭の良い人?悪い人?」と聞くと、周囲の人間は気を遣っているのか、色々といってくれるが、本当のことは教えてくれない。多分「わからない」というのが答えなのかもしれないが、決定的に良かったり悪かったりするのであれば教えて欲しい。
「僕は頭の良い人?悪い人?」