apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

キュア

 子離れのできない親より。

娘の就職活動にいちいち口を出し,自分の詳しくない分野への就職は反対,娘が面接に落ちれば「それ見たことか,あんたなんかがやっていけるわけがないだろう」と勝ち誇り,「だから貴女は私の言う通りにすべきなのよ」.娘が言うことを聞かなければ「こんなに貴女のことを心配して考えているのに,どうしてそれが分からないの!」

 他人に対しても同様に介入しようとする人間がいる(親子関係も「他」人ではあるが)が、親子、親族になるとその介入度が増すことが一般的である。

彼らは平気で子の人生を潰す.そして潰された子は,自分が親になったときに同じことを繰り返す.その心理的な種明かしは簡単なことで,親に対して自由に振舞うことの許されなかった子は,自分が自由に振舞う対象として,無力な子供を食い物にしてしまうのだ.無論,本人にその自覚はない.自分が正しいと思うことを,息子や娘のために教えてやろうとしているのだと信じていて,それが単に支配欲・所有欲を正当化するための欺瞞だとは夢にも思わない.だから親になった子は,「私がお前のことをこんなに考えているのが分からないのか!」と,自分の親と全く同じ台詞を吐いてしまうのである.

 その通りだろう。以前、僕も子育ての資質で触れたことがあった。それでは何故「親に対して自由に振舞うことの許されなかった子は,自分が自由に振舞う対象として,無力な子供を食い物にしてしまう」のか。「支配欲・所有欲を正当化するため」なのだが、それが「正当化」されることによって、親は何を感じるのか。
 この記事の題名の通り、それは親自身の治療(キュア)である。ただ、それは満たされることのない不安への応急処置であって、根本的な治療にはならない。

社会的倫理に反するものであれば、叱ることもできようが、親の個人的な感情で叱ったところで子供は聞くはずもない。具体例を上げれば小学生に携帯を持たせるか、持たせないかということであれば、自分たちが小学生の時には携帯など存在しておらず異次元の話しだ。しかし子供たちからすれば日常的なツールであって、僕らがファミコンを欲しがったことと根本的に変わりはない。親が子供に余計に介入するには、親も自分の興味外のことを学んでいなければならないし、いざという時に助けることもできない。介入をしないのであれば、親はそれだけの覚悟をしなければならないだろうが、友達親子という曖昧な関係性を築いている現代では、少子化と共に子育ての資質が失われている気がしてならない。

 そして、レンジが変化するが、性的虐待のメカニズムも類似のものだろう。チャイルドマレスターより。

性的虐待を受けた人間の一部が性的虐待を起こすメカニズムについては虐待者に対する同一視というのが最も一般的である。投影同一化の働きにより「無力な自分」と「加害者の自分」とのスプリッティングを起こし、加害者となることで自身の主体性を取り戻そうとする一方、被害者に自身を重ね合わせ「痛みの共有」という一方的かつ主観的な共感に浸り、慰めを得ようとしているとも言われる。

 投影同一化は様々な場面で引用され、またその範囲が異なるが、「自分が正しいと思うことを,息子や娘のために教えてやろうとしている」という場合の投影同一化現象は、世間的にもそれが「倫理的」に正しいものの様に捉えられる傾向にある気がする。つまり実践されることを前提にした倫理であり、それが実践され社会的に肯定されることによって、その倫理性が循環する。
 自分にとって不明なものは不安に変換され、その不安を取り除くためであれば、正当性をもって他人に介入し、他人を「正す」ことによって、自分の不安が取り除かれたと勘違いしそれを繰り返す。結局のところ対象は「自分の不安を取り除くため」だけのものでしかないのだ。実のところ他人に必要以上に介入し、「正」そうとする人間程キュアを欲しているのだろう。