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最近は写真日記。

ラブホ

 とりあえず『ラブホ研究論文』が読みたいって思ったけれど、出版とかってなると何かそれはそれで。
 論文とはまるで関係ない話。ラブホの経験はあまりない。やる時は家とか外とかで、お金を出してまでって考えがあまりなかった。始めてラブホに行ったのは高校の時だった。自転車二人乗りで、ラブホの駐車場に良くあるゴム性の暖簾をくぐった記憶がある。そこは自動(ボタン式?というのか)で部屋を決める方式ではなく、窓口におばさんがいて、当たり前の様に「どうしますか?」と聞いて来た。「どうしますか?」と聞かれたので、「どうしたら良いんだろう?」と当時の彼女に質問したら、「休憩か宿泊ってことなんじゃない?」とやっぱり疑問調で言われたので、「休憩」でと答えた。するとおばさんはおもむろに旅館で使われるような、茶色スケルトンの長細いキーホルーダーのついた鍵を取り出して、指でエレベーターを示した。実のところラブホのシステムが良く分かっていなかった僕らは、休憩の時間がいかほどかということもわからず、1時間もしない内にチェックアウト。その後も休憩でラブホを使ったのは1度くらいで、後は旅行した時に宿のかわりとしてラブホを使用。
 というわけで、ラブホは結局「やるため」ではなく、「安宿」くらいの意味合いしかなかった。「どれだけエロティックにさせられるか」というコンセプトがベースにあるみたいだが、残念ながらラブホだから盛り上がることもなかった(僕が盛り上がらなかっただけかもしれないが)。
 「一人暮らししたら、ラブホ状態になるんでしょ」と言われたことがあったのが、意に反して一人暮らしをしたら性交渉の機会は減りに減りまくった。それは何故か。共同空間内の自分のスペースであれば、他人を入れることに躊躇がないが、全てが自分のスペースになると、そこに障壁ができる。基本的に僕は他人を自分の空間に入れたがらない。その傾向は特にイタリアでは顕著で、僕の部屋に入ったことのある人間は限定されている。
 キッチンやトイレなどを見られることに恥じらいがあるわけでもなく、生活水準を知られることが嫌なわけでもない。これはもう習性としか言い様がないのだが、ただただ、気を許していない人間を、自分の空間に入れることが嫌なのである。
 そう考えると、もし僕が日本で一人暮らしをしていたら、ラブホテルを利用する確率が増す可能性は高い。ただラブホテルに対して「エロさ」を求めるかといったら、それはそれで甚だ疑問でもある。エロティックな気分になれるラブホテルってどんなだろう。各人によって美意識が異なる様にエロスも同様である。どちらかと言えばエロスが根底にあると考えた方が哲学的ではあるが。つまりは現代であればジェネラルなラブホよりは、カテゴライズされたラブホの方がエロティックさは追求できるのだろう。そういったエロスの変遷をラブホの変遷に当てはめて、先の論文は分析していたりするんだろうか。