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最近は写真日記。

涼宮ハルヒの憂鬱-アニメ版-

 やっと見終わる。最近のアニメの中では十分に面白い。エヴァを見た時期に、エヴァの代替にハルヒを見ていたら、それはそれで影響力が強かったであろう作品。

「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい」

以下ネタばれ
 高校の頃「君はヤヤバンだよね」と言われていた時期があった。ヤヤバンとはやや万能の略であって、完璧に万能ではないこと。「ヤヤバンだから、器用貧乏に陥りやすい。ちょっと本気を出せば平均以上にはいるけど、万能じゃないから、頂点にはいけない。既に世界がつまらないって思ってる。それが君だ」実のところそう言われた時の自分は「人間本気を出せば何でもトップになれる」とも信じていたけれど、つまらないと思ったのは正しい。
 こういう作品を語る時はやはり自分語りから入るのが正統なのだろう。思春期であれば作品の中にちりばめられた哲学的要素に敏感に反応し、エヴァでそうした様に、作品自体を楽しむのではなく、サブで楽しんでいたと思う。残念ながらフックに引っかかったのは人間原理の引用くらいなもので、後はハルヒツンツンデレデレや、朝比奈さんの萌えっぷりをにやにやしながら見ていた。
 演出が上手い、といってしまえばそれまでなのだが原作を読んでいる人にとっても、未読の人にとっても、それぞれに楽しめるような構成になっている。敢えてつっこめば最後にキスをもってくることくらいしか、青春ラブコメとしてのクライマックス要素がなかったとも見え、苦し紛れとも見えないこともない。もちろんそのキスの前提にあった「ポニーテール萌え」のネタがハルヒ作品らしいのだが。
 らしい、というのはこの作品が商業的過ぎる、という意味である。良し悪しではなく、「狙っている」が見え見えという点で。原作が2003年ということでツンデレキャラの確立過程期でもあり(言う間でも無く、「ツンデレキャラ」としてそれぞれのキャラが再発見された、という意味である)、また主要キャラクターの属性も流行をしっかりとおさえたもので、作者が作中のハルヒ自身の様に、「面白いものだけ」を書こうとしているとはどうしても思えない。当時のライトノベル業界における、作者との妥協点の結果がハルヒ作品と思えてしまって、その作者と作品の距離感が、どうも見ている自分に影響してしまい、作品のデキの良さ如何に関わらず、あまりのめり込めない部分がある。
 「自分が一番に思えて、世界が皆ばか者だらけに思える時期は誰にでもある」高校時代の恩師にそう言われたことがある。「自分にとっての世界はけっこうハードルが低く、自分はこんなに簡単に物事が進むのに、他人はなんであんなに苦労して、悩んで迷ってウダウダやっているのだろう。もっと面白い世界があるはず。自分があっと驚くような世界があるはずだ」と、そんな感じである。ジャンプばかり読んでいたりすると、そういう感じに世界は出来上がる(自分のことである)。
 幸か不幸か、僕は高校時代留学をした。今どき「中学、高校で留学する」は別段珍しいことでもなければ、それなりのシステムがあって、帰国後も平均的レールが敷かれている。僕の場合、端的にいえば、留学は平均的レールからのドロップアウトだった。当時はまだ留学システムが整っていなかったので、「留学=留年」ということになり、大学に入るにあたり尤も敬遠される(当時)「留年」の烙印を押されることになった。「世界は広かった」とか、そういう問題ではない。自分で「留学=留年」を決めた。自己選択をすること。それだけでつまらないはずだった世界が一変した。それが全てだった。

"宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから"

人間原理-wikiより。
 「宇宙が宇宙であるのは、人間が宇宙を宇宙と認めたからである」ハルヒの世界観のベースには人間原理がある。ハルヒ原理と置換できる。「世界が世界であるのは、ハルヒが世界を世界と認めたからである」と。1人の少女によって世界が作り替えられる。先日ブレイブ・ストーリー(映画版)を見たが、根本題材ではあるものの、ここまで完成度が違うのは、やはり書き手の才能なのだろう。残念ながらブレイブ・ストーリーこそ見ていて白けてしまった。
 話が逸れた。

この世は私を中心に回っているはずなので、私が死んでしまったら、この世は終わってしまうわけです。

これから楽しいことをしようとしてる人や、現在幸せな人も、私が死んで、この世が終わってしまうことによって、その幸せさや楽しみが終わってしまうわけです。

だからみんなのために私はとりあえずがんばっていきつづけないとならない。

自分が死んだらみんなの人生も終わってしまうんだろうから。

 涼宮ハルヒはただそれを表現しただけだ。人間原理とか、科学とか非科学とか以前に、既に主体は自己にあり、己が観測することによって世界は客体となり、自分が望めばその客体は変化する。ハルヒが自分の存在を疑わない理由がそこにあるのだ。
 とにもかくにもこういう作品を見ていても、既に僕の中ではただのエンターテイメントでしかないのだろう。