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最近は写真日記。

ぽりてぃくす

 けんけんがイライラしている。その時の状況はこちら。一度まとめてみる(もちろん部外者なので詳細はわからない)。

  • 教官の還暦を祝うために研究室の学生がパーティを企画。
  • その準備品をしまおうとしたところ、冷蔵庫にはけんけんの食材が。
  • 作業中のけんけんに食材を「移して欲しい」と言い残し去る後輩。
  • 作業を中断して「他に移しておいて」と後輩に言うと、「あたしがやるんですか?みんなが使うんですよ」と言われる。

 表面的にはどこにでもある様な場面である。それだけで語るのであれば、「別にけんけん、自分で食材移しておけば、良いんじゃないの?みんなパーティで盛り上がってるんだし」とか、「スペース作ってあげれば良いんじゃないの?先に入れてたのはけんけんなんだし」とか、捉え方は色々ある。この段階で個人的なことを言っておくと、パーティとか飲み会とか、大勢で飲む状況に興味ないので、個人的に関わりたく無い。何より「祝う」のであれば、自主的に祝いたいし、多数で祝う意味がわからないので、納得のいく理由が欲しいだろう。
 後輩側の倫理はどうだろう。「同じ研究室」で、お世話になっている教官を、「みんなで」祝うのだから、協力して「当たり前」。みんなは作業もそこそこに、パーティの準備をしているのだから、けんさんもそうするべきだ、くらいのものだろうか。
 けんけんの苛立ちは、後輩の盲目性にある。コメント欄での「今回のパーティーは学生が教官の還暦を祝う半強制参加のパーティーだったわけで」という多数によった正当性の主張が顕著だ。権力を背景に、他人が強制されることに、拒否権さえも認められない状況は恐ろしいものではある。
 政治的である、と僕は感じた。けんけんと後輩の仲がどの程度のものか、僕にはわからない。また祝おうとしていた教官、けんけんの研究室には教授が何人いて、学生の指導をしている人間が何人いるのか、詳しい状況を僕は知らない。
 けんけんの状況を僕なりに想像してみた。話に聞く限り、けんけんは自分の大学の研究室にいるよりも長い時間を外の大学や研究所で過ごしている。また日記の内容から感じたことは、外(米国)にいた時は具体的な個人やコミュニティに追求する日記が多かったのに対し、日本に帰って来てからの日記は、自分の研究周辺に関して現在の研究室を取り上げはするものの、外にいた時の様な対人的な内容にはあまり触れられていない。直感的にいえば積極性や肯定性を感じない。かといって否定感をうけるわけではないのが。
 立脚点があまりにも主観的過ぎるが、ベースとなる社会から遠ざかると、その実体性が希薄になる。幽霊部員という言い方があるが、名こそ残響するものの、実体が伴わずに、存在性は軽視される。人間関係において師弟関係は無視できず、またそれが政治に及ぼす影響は計り知れない。アカデミックにおいては師弟関係こそが政治の全てである、といっても過言ではないのだろう。
 けんけんは下級生を後輩と呼ぶ。先輩と後輩、指導教官と教授。僕は研究室にいたとき、下級生を後輩とは呼ばずに「〜年生」という呼び方をしていた。また3流私大なので、指導教官と教授の差異もなく、教授1人で全てをこなしていた。それでも人間的な先輩後輩の関係を構築し、派閥を作り、権力を好む人間もいる。下級生を政治的に誘導しようとする人間もいる。
 けんけんが研究室から離れている間に、研究室内部での政治状況が変化していた、もしくはけんけんが最初から距離をおいている、と想像の域は出ることがないが、けんけんと後輩とのやりとりの裏側にあるものは、単純な「みんな」を背景とした多数派権力による強制力ではなく、けんけんの置かれている状況が反映されたもののような感触があった。
 話があまりに主観的でワイドショー的なので、違う視点から。科学者として権力に踊らせるべきではない。科学者倫理として、科学的方法を客観のメインフレームとするのであれば、そこに政治的権力を持ち出して他人を強制することには違和感を感じてしかるべきだろう。多様性を認めるべき観測者が単一的になってしまっては視野は狭まるばかりであり、ましてや「みんなが」「誰もが」「常識だから」という価値観に囚われていては科学者としての幅もまた狭まってしまう可能性がある。もちろんこういう見解にも強制力がなく、一つの意見として参照されてこそのものでもある。
 書きたかったメインはけんけん自身が書いているので、他に思ったことそ、それこそ自分勝手に書いてみた。