apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

Stay hungry, stay foolish.

 少し前に話題になったジョブズのスピーチ

「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。
 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

 ジョブズのカリスマ性が感じ取れる様なスピーチである。内容はいたって古典的でシンプルなものだが、話し手によって如何様にも変化し、聞き手に感銘を与える。「今日が人生最後の日だったら」という問いかけは、何をするにも前提にあるべき条件であり、根本的なことでもある。人は案外身勝手なもので「自分は大丈夫」という気持ちが強い様で、安直に未来予想図を語る。それどころか、未来の自分像を持ち出して、他人の未来像を批判しようともする。日本の受験システムとか就職活動には、この他人批判に依る自己肯定の倫理が多く見受けられるが、何年後かの保身のための今よりは、今そうありたい自分が継続していく方が、僕は好みだし、何より自分自身そう生きてきた。言ってしまえば他人にかまっている暇などないくらいに、自分ばかりを追いかけている。それでも残るものは残り、消えるものは消える。物も人も金も知識も経験も。

もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
 あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

 これを読んでいて浮かんだのはSHIGEOのリリック。

人生まさにタイミング そんな催眠 解き放て目の前に
ライトニングおこす出来事ごと 次第に胸も一杯に
幼い頃歩いた道たちが 今この場所に続くなんて
時間割いて回り道した事 すべてムダなんて言わないで
前に進もうと靴が急かして 眠れる獅子はここに寝かして
果たして これで良いのかと問いただして 気持ちが怪我して
なんて言ったらいいんだろう 安定の光など
何も差し込まない窓 ならそこに立ち光ろう

So long da distance anyway you go anywhere you knockin` door

 僕のドロップアウトは間違いなく17才の時だ。「卒業してからいけばいいのに」という言葉が空しかった。あれからそんな寄り道を幾度となく重ねている。ドロップアウトもドロップインも、血となり肉となる。時間や知識、経験だけの問題ではない。その時その時、自分が真にやりたい事を重ねているという事実こそが、何事にも代え難い、自分にとっての真実となる。
 今いる自分は、将来的にみればドロップアウト、もしくはドロップインをしていることになるのだろうが、もちろん今の僕にはそんな気はない。今の自分は相変わらず自己選択の結果の自分なのだから。

Stay hungry, stay foolish.

 人から馬鹿だと思われようが、僕は僕の生きたいように生きる。