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最近は写真日記。

1%あっての99%

 「才能、才能っていうけれど、努力あっての才能だと思う」といわれ、咄嗟に出た言葉が「努力できることが才能だってことも言えるけれど、何より1%の才能がなければ、99%も努力はできない」だった。もちろんその「1%を知るために、99%の努力をする」って人もいるのかもしれないけれど、実際のところ、才能なんて数字で割り切れるものなんかじゃなくて、どっちかっていうと、99%の中に、1%が分割されている状態ってのが本来的なんじゃないのかとも思う。要するに努力をしている時点で、その才能の因子が紛れていて、99%努力した頃には才能パラメータも1%になっていますよってことなんだと思う。
 仕事を始め、以前に比べて時間の使い方が効率的になった。強制的にやらざるを得ないことと、自分がやるべきことの時間が区切られ、余裕を失った分、色々なことが整理された。これは自分の甘えへの皮肉でもある。kojiさんに院生の読書法を聞いた時に、「数冊の本を並行して読む」「1年を通して色々な講座で、それぞれのテスキトを少しずつ読み進んでいくから、並行して読む能力も必要になる」と教えられた。僕の場合、それまでの読書スタイルは1冊集中型だったが、何冊かの本を並行して読める様に意識的に努めた。結果的にメインとサブの差はあれど、何冊かの本を並行して読める様にはなった。この読書スタイルは仕事を始めた今となっては、実に有効的だと気がついた。
 「必要な本にかける時間はせいぜい2時間。それ以外は5分で十分」だと、入江昭が「歴史を学ぶということ」の中で書いていたが、読書にかける時間の使い方もまた変化した。ここにもまた自分の甘えを認識した。読むべきものと、読みたいものの差も認識せざるを得なかった。
 「優秀過ぎて、こんな所では多分満足しないだろうし、飽きると思うけれど、それでもお願いできるのであれば」と会社で正社員の給与額を出して貰った。「この会社で正社員になるのはそれなりに難しいんだけれどね」と前置きもあった。それでも額面を見た時は「こんなものか」とも思ったが、色々な人(僕よりも社会経験が豊富な人)に書類を見せると、「全然良い。今ここまで出ない」と言われ、前向きに検討し始めている。面談をした人は取締役部長なんて肩書きで、実際のところどこまで偉いのか僕にはわからないけれど、「他部署に〜研究所ってところがあるから、一応部署変えも今後あるって思っておいて下さい」とも言われた。すんなり話しがまとまれば4月1日からは新社会人のできあがりである。年商がグループ全体で1千億を超えている、という数字が大きいのか小さいのかさえ、まるでわからない社会人だが。
 今後の僕の人生予定を知っている人と知らない人。もちろん僕も人生が「どうなるのか」知っているわけではないのだが、「こうする」という自己選択予定の人生は知っている。その僕のスケジュールに変更はない。僕は戻るべき場所に戻り、終わらせるべきものを終わらせ、始めるべきものを始める。その為には資金が必要だという現実を超えるための現在。現実を否定しなくなっただけでも、成長したと捉えても良いのだろう。違和感はありつつも、それらをシフトさせるために自分が何をすべきかを、皮肉にもその現実に教わることになった。
 話を戻す。僕には99%努力するべき1%の才能があるのだろうか。「趣味で良いんじゃない」と言われても、今の僕には反論できるだけの業績もありはしない。履歴書を見た部長には「ここまでやって、就職か…。相当悩んだんじゃないんですか?」と同情されたが、残念ながら一切の悩みなどなかった。やりたいことだけやれるのが、もしかしたら僕に残された1%の才能なのかもしれないが、相変わらず自己選択後に躊躇はない。結婚も就職も自分自身の幅を拡げてくれる、機能拡張(語弊はあるが)みたいなものなのかもしれない。
 機能拡張がコンフリクトを起こせば起動しなくなり、バランスが良ければシステムが安定する。システムがどれだけ開発進化しても、素のままのシステムは何よりも安定はしているが、具体的な機能に欠ける。様々なものをインストールすれば、安定度は下がるものの、使い勝手は向上する。安定度と機能、このバランス調整で、システムはどうにでもなる。
 別に人生が全てシステム的だといいたいわけではないが、ソフトとハード、同様のものを揃え、同様のものをインストールしても個体差が生じるのは、人間的であると感じる。「機械的」という言葉が話題にもなったが、ともすれば機械などは個体差だらけで、結果として生産されるものも寸分違わぬものが出てくるわけでもない。実際のところ「機械的」とは、人間よりも幾らか安定している、というだけの話でしかないのだろう。
 才能も努力も、どうやら僕の人生にはあまり影響力はなさそうだ。結局のところ、僕はやりたいことだけを続けていくのだから。才能も努力も、他人が判断を下したら良い客観だ。もしくは死ぬ間際になって自分でその判断を下すか。