apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

ばっばっばっ

 どうやら彼らには理解できない様だ。私が彼らのやり方に合わせる以外方法はないのだろう。仕方のないことだ。彼らの言い分では、社会がコミュニケーション可能なものであり、世界はコミュニケーション不可能なものをあらわしているというが、何とも不便な能力ではないか。今の私には社会も世界もない。しかし彼らとコミュニケーションを図るためだけの能力を獲得することによって、コミュニケーション不能な世界ができあがるなど、あまりにも代償が大き過ぎる気がする。
 「まだ話すことは無理かな?」「無理だね」彼らが私に話かける。馬鹿げた話だが、「無理」なのは彼らの方であるのに、その無理性を考えることもなく、他人に押し付けている。自分にとって「無理」であっても、他人にとっては「無理ではない」ということがわからない様な狭量なものに私は成りたくなり。ましてや事物を「無理」と言い切れる程の無力さを呈したくもない。私は彼らの言っていることも聞こえているし、理解している。それなりの反応はしているが、その「反応」が彼らの言語能力を超えている、もしくは範疇外らしく、コミュニケーションが成立しない。彼らにはそんなことも想像できない様だが、想像できない方が幸せに近付ける人生もあるということを、私は想像したりもする。
 二足歩行することによって脳の発達が促されるらしいが、逆に退行する部分も多かろう。そうしてまた一つ自由を失い、汎用性を得るのか。この種に生まれてしまったからにはその様に成長し生存しいくことが自然なのだろう。それに敢えて逆らうつもりはないが、残念ながら先の様な価値観に染まる気はないので、常識非常識のボーダーラインは曖昧なままにしておこう。ミルクの温度の様なものかもしれない。
 こうして結局のところ彼らと同じ言語で彼らを批判すること自体、既に馬鹿馬鹿しいことであることは間違いない。何より馬鹿馬鹿しいと気が付きながら日々を過ごすことほど馬鹿馬鹿しいこともない。それならばやはり全ては曖昧なまんまが納まりが良い。
 「ばっばっばっ」と発してみる。「パパ、パパ」と彼らは私の発話を直そうとする。残念ながら私は呼んでいるわけではない。曖昧に、ただ曖昧に言葉を発しているだけだ。それを一つの価値に強制しようという行為がやはり浅ましく馬鹿馬鹿しく思え、笑って誤魔化す以外に方法が思い付かない。こういう時は眠るのが良い。眠ると夢を見る。この夢に怯えた作家がいたが、未だに言語化する術を知らない私には、夢はそれほど恐怖ではない。どちらかと言えば寛容だ。そこに無理性は存在しない。他人の強制を受けない。私の脳が規定されていない分、そこに自由がある。「無理だね」などと人生をさも知っているかの様にほざくものも居ない。それで良い。それが良い。さっさと眠ることにしよう。チュッチュをくわえてしまえば口を開く必要もない。便利な道具だ。彼らも時にはチュッチュをくわえて、無駄口を慎んだら良い。さ、いい加減もう寝よう。