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最近は写真日記。

「結婚ていいよ」

 友人が、結婚したばかりの人間にそう言われたらしい。「結婚すると、そういうことを言い出すんですか?」と問われた。また「結婚すると色々とあるじゃないですか。ギブアンドテイク的に、自分の時間を犠牲にしたり。自分のやりたいことは後回しだったり」とも言われた。結婚をそう考えている人が結婚すれば、そうなる可能性はあるんだろう。最初の疑問にしても「結婚が良い」から「結婚」する人は、後々に「やっぱり結婚するんじゃなかった」と言い出すかもしれない。
 僕にとっての結婚は何度も書いている様に、要するに「意味不明」のものだった。色々な結婚の形があるのだろうが、そのどれもが僕にとっては意味不明なものばかりだった。結婚の意味がわからなかった。17才の時に自分の価値観が壊れた、と感じた。厳密にいえば、それまで「自分」だと思っていたガワが外れ、自分を構築することに興味を失った。それから10年が経ち、また要らない「自分」が増えた気がした。僕自身が構築する気はなくても、コミュニティで出来上がるキャラクターが定着し、それが残像として残る。もっと早くに壊したいと思っていたものだ。自分の中に在る「者」と、僕に接する各々の中に存在する「自分」の間に距離ができた。その末期状態の時期に僕はイタリアにいた。
 イタリアの前後で、僕を「変わった」という人と「相変わらずだね」という人がいる。どちらも合っていて、どちらもズレているのだろう。それを具現しているのが僕の結婚だ。「結婚」という現象を見て「変わった」という人もいれば、「僕」を見て「相変わらず」という人もいるし、家族と共にある僕を見て「相変わらず」と笑う人もいる。
 僕の中で何かが変わったのだろうか。17才の頃を思い出す。オーストラリアから帰って来た僕を見ての周囲の反応は、今回の反応と比べてもそれほど大差がない。成長期ということもあり、「成長した」と捉えられることが多かったが、結局のところ周囲の僕の残像と実像の間に距離があり過ぎた様だった。一言で表現すればこれは「アイデンティティ・クライシス」に他ならないのだが、残念ながら「アイデンティティ」に対してそれほど執着がないのであまり影響力がない。つまり「自分」とか「変わった」とか「アイデンティティ」とか、その段階で既に捕われているな、と感じる。言ってしまえばそれはただの「言葉」でしかないのだから。「結婚」も同様だ。捕われてしまえば、その「結婚」から抜け出すことはない。それは人生や学問も同様に。
 「別に僕は『結婚』が良いとも思わないし、人に薦めたりもしないけれど?」と問い返すと、「じゃあ、何なんですか?」と不満そうに聞かれた。何でも、ないのだ。名前が付いていても、それが実体を示しているとは限らない。言うなれば実体が不明だからこそ名前をつけて整理したと考えるべきだろう。制度だけを語るのであれば法律的な説明で済む。が、どうやらそういう答が欲しいわけでは無さそうだ。結婚して「人はどうなるのか」が知りたい様だ。しかしこれもまた、どうにも、ならない。逆にどうにかなる、と思っていればどうにかなるのだろう。
 話は頭に戻る。結婚が「意味不明」だった頃の僕は、結婚自体に否定的だった。それも徹底的に。制度であれば頭だけでは理解していた。そこに落とし穴があった。「意味不明」と批判する行為に執着していたのだ。それでは「結婚が良い」から結婚することと同義だ。結局僕自身が「結婚」に捕われていたことに他ならない。否定する、ということ自体、既にバイアスがかかった状態だったのだ。その一面だけを見れば僕は結婚することによって、一つのブラインドを取り除けた、と言えるだろう。
 こだわりが強い人、というイメージを持たれる。だが実際のところ何でも良いのだ。ただひとつを除いては。本当であればそのひとつもとっぱらってしまえば、より執着は減るのだろうが「ひとつだけ」とわかっている限り、根源的な部分にブレは生じないので行動はし易い。そしてまた「ひとつだけ」とわかったつもりになっていても、どこかに執着が存在し、また生まれ、それに捕われることがあるかもしれない。それを取り払う度に、「変わった」「相変わらず」と言われ続けるのだろうが、その言葉を客観的事実と受け止め、また一つブラインドに気がついた結果の事実としておけば良いのかもしれない。