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最近は写真日記。

権威と信用

けんけんの疑問より。

発話者が,多くの人にとってはどんなに説得力のある話をしても,反動的な人間には「ウソだ!」となることもあるし...しかし,発話者がどういう人間なら説得力があるのか,あるいはどういう場合に逆なのか.エジソンの言葉が持つ影響力が「権威」によるものなのだとしたら,僕の言葉が誰かの心に響くときは,僕自身は既に権威付けされているのか?いや,それが権威と言うより信用だというのなら,権威と信用との違いは何か?あるいは信用は,何かの切欠で権威になってしまうことがあるのか?

 権威と信用と難しい問題ではあるが、まずはそれぞれ一般的な用法を用いて整理したい。
権威とは何か。「他人のメッセージを、その内容を自ら吟味することなく、しかしすすんで受容する現象」(H・サイモン)と考えられるという。またその受容方法を分類するとサディズム的傾向とマゾヒズム的傾向に分かれるが、どちらも同一の逃避構造を持っている様だ。ちなみにサディズム的傾向とは他人を自己に依存させ支配しようとすることであり、マゾヒズム的傾向とは自己の外側の力に依存し服従しようとすることを示す。
 権威と混同されがちである権力は「Bがふつうならしないであろう何事かをAがBにさせた場合に、AはBに対して権力を持つ」と関係論での捉え方が腑に落ち易い。つまり支配とは、通常下から上に対して権威の付与が行われ、そこに疑問が生じ権威付けができなくなると、物理的強制力としての権力が発動することになる。少し調べたところ、それが権威と権力の棲み分けとなるらしい。
 そして信用とは経済的用法creditでの使用が一般的な様だ。広辞苑第五版では「給付と反対給付との間に時間的なずれのある交換。物品を購入してその代価を後日に支払う類。信用取引。」となっている。大辞林などで引くと「人が他人を信頼することによって成り立つ、給付と反対給付との間に時間的なずれのある取引。信用取引。」と、「人が他人を信頼すること」という文言が入っている。
 権威と信用の語源を追ってみると、どちらもラテン語に辿り着く。権威はauctoritas、信用はcredo。
 以下権威についての説明はWikiからの引用となる。

古代ローマの「auctoritas」に由来する語で、助言以上命令以下であり、自発的に同意・服従を促すような能力・関係を一般的に指し示す。ただし、「自発的に」とはいっても「同意・服従」への圧力がかかっているわけで、完全に自由意志で結論を下せるわけではない。

 信用/credoはそのままcreditに派生したと考えられ「貸し付け」という意味が語源となる様である。つまり貸す場合、信用が必要になる、という意味合いだろう。
 一般的な用語説明が済んだ所で話を冒頭に戻す。けんけんの問いの前提にあった僕の発言が以下である。

話しの内容そのものではなく、発話者が誰かが決め手でしょう。そして結局のところそれを決定するのは受信者の世界そのものなんだけれどね。

 「発話者がどういう人間なら説得力があるのか…影響力が「権威」によるものだとしたら、…既に権威付けされているのか?」それを決定するのは他でもない受信者であり、権威とは結局のところ外部には発生せず、受信者の内部にて付与されるというのが基本構造である。ここから先は事実関係を調べていないのでまるっきり思い付きになるが、けんけんの疑問の発端となった「エジソンの言葉」の影響力に関していえば、権威付けされたから影響力を持ったということだけではないだろう。エジソンの言葉をそのまま捉えれば「才能が無ければ、努力は無駄」であり、そのまま報道しては、ネガティブな人間は「じゃあ私には才能なんて無いから努力して生きる必要がない」と自暴自棄になる可能性があり、不特定多数を向いた記事としては危うい。また時代的にはアメリカ繁栄前期であり、世間に水を差す様なこともマスコミは書けなかったのではなかろうか。と考えればマスコミがエジソンの名前を用い、彼の言葉を婉曲し、話題性を持たせたかったという理由にはなりそうである。「人生でも、国の発展でも、戦争でも努力は必要である」と暗に示したかったのではなかろうか。
 「エジソンの言葉」の影響力に関して言えば、マスコミはエジソンへの権威付けを錯覚させ、大衆はマスコミを信用した結果であり、大衆がマスコミに対して不信感を抱いていれば影響力はそこまでではなかっただろう。要するにここでの影響力はエジソンの権威よりも、マスコミの信用度が優先されていると考えられる。
 またエジソンでなくとも、成功者(色々な意味での成功)の言葉は名言として抽出され、文脈から乖離された状態で用いられる。その場合注目しなければならないのは、その人物が自分が思い描く「成功者」に値するかどうか、である。そして人はその成功を信じ、その人間に自らで権威付けを行うのではなかろうか。
 書いていて感じたことだが、信用とは明らかに需要と供給、もしくは見返りを獲得できる関係を示す用である。極端な例を挙げればお金を貸す状況である。お金を貸す場合、その金額同等を相手が返済可能であることが基本的な条件になる。返せない状況だとしても、金銭以外の物がバックされて、それ以降の信用は持続して行く様に感じる。「お金を貸す場合、あげたものだと思え」とは言うが、その「次」があるかは甚だ疑問である。それは対法人でも対個人でも言えることで、返済能力が無ければ公的に「借りる」という行為は成立し得ない様だ。そして信用とはつまりその「返済能力」に代替されるものなのである。そして如何に権威があろうと、返済能力がなければお金を借りることができないのである。
 以上の様に考えると権威と信用の差異は明らかになる。権威は受信者から発信者へ付与され、絶対的な自由意志は保証されないものの、力による圧力が無い分選択の余地はあり、受信者側に決定権がある。そして信用とは信じるに値する返済可能な物に付随するため、意識とはまた違った部分に存在することになるのだ。つまり発信者の言葉を捉える場合、受信者側で権威付けを行いすすんでその言葉を受容するか、もしくはその言葉自体ではなく、発信者に何らかの代償を求め信用するか、と分かれるのだろう。