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最近は写真日記。

freedom or liberty

 自由に耐えられぬ奴隷より。

奴らに自由を与えてみるがいい.最初こそ狂喜するに違いないだろうが,翌日には跪いてそれを差し出してくるだろう.しかも,奴らが跪く対象は,バラバラであってはダメなのだ,全員が,みんな揃って跪けるような対象をこそ捜し求めているのだ…

 自由という言葉を聞いて最初に浮かんだのがヘーゲルの言葉である。

「オリエントでは一人のものが自由であり,ギリシア・ローマでは若干のものが自由であり,ゲルマンにおいてすべてのひとが自由となる」

 背景には抑圧、束縛のない自由(free)と、そこからの解放としての自由(liberty)がある。ヘーゲルの言葉に言及すれば、社会主義的自由を示している、と言い換えても差し支えはないだろうか。つまりは自由経済においては平等にあらず、格差を生むことになる。結果的に、隷属的自由(相対的自由)を得ることになるが、格差故の自由であって絶対的自由とは異なる。逆に平等を求めれば結果的に皆が解放に向かう、という社会主義的思想を土台とした絶対的自由をヘーゲルは示していたのだろう。
 自由に耐えられぬ奴隷、という表題には、奴隷依存の為の主人の自由、が含まれている。マスターとスレイブという関係は、相互依存故の各々の自由性であり、どちらかが欠けても成立し得ない状態である。同様に、「僕は自由だ」と言葉にした瞬間に、その言葉の自由であることの抑圧に苛まれることにもなるのだ。
 まだ日本で学部生だった頃、倫理学の講師に「幸福な生き方とは何だ?」と聞かれ「本能的に生きること」と答えたことがあった。「外れではないが現代社会において真に本能的な人間はいない」というのがその講師の教えであった。フリーとは、自己の抑圧すらも無いような主体的な自由を示し、リバティとは制度としての自由であり、外圧から解放された状態をしめすもの、と捉えることができるだろう。当時僕が言いたかったのはフリーである人間こそが幸福である、だったが、講師の答えはリバティを勝ち取った人間こそが精神的にも自由である、というものだった気がする。
 思考を解放するのは簡単なことではない。己を解放するには宗教的信仰がクラシックではあるが、遠藤周作が行き着いたパラドクスに陥る可能性が高い。信仰、という言葉に縛られ、その檻から出られなくなる。「神など、言葉でしかない」とその檻を破ろうとしても、神の存在を自らが認めることになるのだ。
 僕は自由だろうか。思考においては未だ盲目的にバイアスに縛られ、ブラインドに気が付かない部分が多々ある(と感じている)。ただし絶対的自由としてのユニットが固定された、という意味では、過去の自分に比べれば、ある一部分においては、解放されたと言えなくもないのだろう。
 最後に付け加えるとするならば、僕は、僕が自由であることに興味がない。自由であることが目的でもない。時には自己を忠実な奴隷とし、自分の中にマスターとスレイブの関係を構築し、時にはその自己構築を解放し、時にはバイアスがかかっているだろうか、と自問自答しながら我に任せ、時には敢えて外に隷属しながら、自由を使い分けることが、僕のやり方でもある。実際の所、僕が目指すものは自由ではなく、解放でもない。わからない、というのがその答えである。
 unkownを追い求めてfreeに憧れ、libertyからさえも解放を望みながら、倫理と実践の循環の日々を送る毎日なのである。