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最近は写真日記。

本当に面倒なのは幻想

女の子と付き合うのが面倒より。ゴリラブーツさん経由

相手のことを純粋に好きという意欲よりも、その関係を維持する手間的コストの方が高いので
付き合うという行為を「面倒くさい」と感じてしまうのだろう。

 先述のテキストには2つの共有幻想がある。バイアスと片付けてしまえば良いが、「女の子」「付き合う」、この2つの言葉に付随する、データベース的幻想が根源である。
 本当に「女の子」のほとんどが「恋人らしい振る舞い」を要求してくるのだろうか?何より「恋人らしい振る舞い」は、「女の子」のほとんどに共有されている約束なのだろうか。おまけに、そのほとんどの「女の子」は「付き合ってる」って確認するために、手を繋ぐ、デートするのだろうか。多分そういう人もいる。が、ほとんど、というのは言い過ぎだろう(強調したい気持ちはわかるが)。極論を言ってしまえば準拠集団に依り恋愛価値観は全て異なる。言うなれば「女の子」の分類が先ではなく、準拠集団の分類が先決で、それ如何で「集団に準拠する女の子のほとんどが」と理屈をこねられるのだろう。
 それに別に、女の子と付き合っていないからといって非モテ認定ではないだろうし、「付き合うなんて面倒くさい」の言い訳が「出会いがないから」「忙しいから」では問題がズレてしまっている。結局のところ「勇気がないから」でしょとつっこまれるのがオチではある。
 僕は特定の女性と密に付き合うのが面倒臭かったから、複数の女性と関係を持った(それを「付き合う」と言わないのだろうから、関係を持った、と表現する)。その時々で「恋人らしい振る舞い」があったかもしれないが、別に強要もされなかったし、強要もしなかった。何より「付き合ってる」確認の為に手を繋ぐ、デートはしなかった(「付き合う」関係ではないから当たり前だが)。会いたい時に会いたい人に会い、ムラムラした時にセックスしたい人に会っていた。

時には女の子の愛情が欲しくなるときもあるし、ムラムラしてくればセックスしたいこともある。

 それが本音だろう。問題は自分の思う様な関係を築けなかったが為に、「女の子と付き合うのが面倒」と摺り替えている点にある。何故思う様な関係が築けないのかと言えば、上述の2つの幻想が付き纏っているが為に、幻想が現実に先行して、その関係性を乖離させてしまうからだ。残念ながら人と「付き合う」という行為は、最初から言葉で限定されるものではない。親子、友達、恋人、夫婦、全てにおいてだ。大切なのはその「付き合う」という行為の中で、それらの言葉の本質、もしくは意味の相互理解を得ていく事にある。関係性を表現する言葉は、言葉に依ってその関係性が規定されるわけではなく、関係性に依って言葉が体現されるべきである。要するに幻想が先行している以上、恋に恋する状態で完結してしまっているのだ。
 ここまで書いて、別にそれは悪くないと思う。それで満足なら、それで自分が肯定されるのであれば問題はない。が、増田にそんな事を書いてしまっている以上、要するに付き合いたいんでしょ?女の子と?と受け取られてもしょうがない。人間関係の問題をなんだかんだと並べて、「でも他人に興味ない」と言う様なものだ。
 そしてそんな事に言及して、やりチンでしたみたいな事を書けば、「女の子と付き合うのが面倒」という方々から、それは「付き合う」じゃなくて、人間の屑と言われたりするのだろう。本音を現実にすると、そうなってしまうのである。最終的な着地点はそこだろう。
 本音を現実にしようとすると、自分の「付き合う」の倫理から外れてしまう。かといって、その「付き合う」を行為にすると酷く面倒だ。何故ならやりたい時にやれないし、愛されたい時に愛してくれない。その為の投資(コスト)が面倒で、「付き合うのが面倒」となってしまうのではないか。
 「勇気がない」を転用すれば、女の子に話し掛ける為の一歩の勇気ではなくて、自分の幻想とする「女の子」と「付き合う」を壊す「勇気がない」だけなのだろう。できるけれどしない、と面倒くさいからしないでは、その達成率は格段に違うのである。