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最近は写真日記。

結婚に幸せを求めるから、不幸になるんだろう

 いつも結婚して良かったなぁと思ってる。
 はてな増田のエントリー。ネタとしてのツッコミと(反面ネタだったり)、家政婦的役割が協調されている部分でのツッコミと、妄想ツッコミと、色々とブクマコメントがある。それに対しての批判は以下。
 404 Blog Not Found - 幸福の第一原則

「自らが幸福になる」も「他者を不幸にしない」も双方とも間違いではない。が、どちらの優先順位が高いかといえば、前者なのだ。後者ではないのだ。

人の不幸を心配している暇があったら、
まず自分が幸せになれ
Pursuit your happiness before their worries.

 ノロケ系のエントリーは反感を買うことが多い。そういうコメントを見ると、寂しいな、幸せじゃないのかな、と率直に感じる反面、素直だな、とも感じる。素直な反応だからこそ、病んでるのはどちらだろうか、と感じてしまうこともある。
 何度も書いていることだが、結婚=幸せではない。それはつまり結婚すれば誰でも幸せに成れるわけではないということだし、結婚している誰もが幸せではない、ということでもある。それは多分一般的な幸福論にも通じる。生きている人間は誰しもが幸せではないし、生きていること自体が幸せであるとは限らない。
 他人と比較して人は幸せだと感じる。他人と比較して人は不幸だと感じる。同様に、過去の自分と比較して今の自分は幸せだと感じ、また不幸だと感じる。不幸は比較することによって不幸格差を再生産し、幸は比較することによって新たな不幸を産み出しかねない。前者は、大きな悲しみによって小さな悲しみは救われ、後者は他者の圧倒的な幸福により、自分の幸福に疑念を抱く、という可能性を含んでいる。比較をして始めて幸か不幸か知り、比較をした結果、幸は不幸に、不幸は幸に転じることがある(その逆もある)。そう考えると幸不幸の基準は結局自分の外にある、ということになる。
 自分の過去と現在だけを比較した場合。「あの頃に比べて」自分は幸せなのか、不幸なのか。その比較の方が、他者と比較するよりも有益な情報を与えてくれる場合が多い。また成長過程において、他者との比較から始まった基準が、自分の歴史ができることによって、より自分に準じた基準に補正されていく。それがある意味人間としての自立であり、他者との本来的な比較が可能になる瞬間でもある。
 結婚自体に幸せを求める行為が不幸の発端ではなかろうか。結婚とは所詮紙切れの契約でしかない。残念ながら本質はそこにはない。人生の中で、別にしなくても生きていけるものがあるとしたら結婚が筆頭になるだろうが、したらしたでそれだけ人生にプラスされるものがあるのも事実だ。幸せな結婚を夢見るのではなく、幸せな結婚を実現するために必要なことを具体化し実行していくことが先決だろう。そしてそれは人生にも置き換えることができるのだが、自分が望む幸せのために何をするべきかが具体的でなければそれに近付くことは難しいのではなかろうか。