apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

民ありきの王。でも裸の王様。

一方的なプレゼントは暴力と同じだから

 何度か引用している言葉である。暴力はそこら辺に存在している。一方的な愛は暴力と成り得る。愛、という名を借りた暴力である。政治も教育も仕事も人間関係も。目に見えるか、見えないか。肉体的暴力が酷いものだ、と思いこまされているか思いこまされていないか。裁判によって公使される力もまた暴力の一種だ。警察でさえ、組織化された暴力である。自分の意志に関係なく、強制的に強いられればそれは暴力なのである。であれば、自分の意志に反していなければ暴力と成り得ない。愛と暴力が並べられるのにはわけがあるのだ。どれだけDVにあっても、それを愛だと思えれば、暴力ではないのだ(暴力の定義によれば)。
 だからプレゼントの様なものだ、と思えば良い。好きな人からもらえれば、度合いは違っても、嬉しいだろう。嫌な人からもらえば、どれだけ欲しいものでも気持ち悪いと思うに違いない。そんなものだ。そんなものでしかない。いつでも問題は当事者にしかわからない。当事者が助けを求めるのであれば、組織化された暴力で対抗すれば良い。でなければ、傍観者であれば良いと思う。人がプレゼントをもらって横から口を出すのは、野暮だろう。基準点なんて、人の数だけある、ということだ。
 王様は民があって王である。王国とはそういうものだ。マスターもまたスレイブがいてマスターとなる。スレイブがいなければマスターと成り得ない。つまりマスターとしての自分に執着すればスレイブに依存することになる。逆支配がそこに出現し、事実上のマスターとスレイブが入れ替わることになる。そんな間抜けなマスターのお友達はいないけれど、実のところ昔の僕もそうだった(肉体的暴力を振った試しはないが、強制する、という意味で暴力を振った)。他人を支配しようとすれば、結局自分が支配されることになる。それに気がつかない限り、抜け出すことのないループだ。他人を強制し、支配の為に肉体的暴力を振ったところで、結局は自分を矮小化させているだけでしかない。自分を自分で支配し、奴隷化しているだけでしかない。
 僕が牧場を作ったのも、そういったループから抜け出したいが為でもあった。またリスクを統合しようと思った時、他人を支配しようとは思わない様になっていた。それが成長なのか、経験故に得た自分なのか。自分が自由になる、とはそういう事だと思った。僕は他人に興味がない、と言いながら他人に縛られていた。今はどっちでも良い。何があっても良い。どうでも良い、は言い過ぎかもしれないが、他人は客観的な定点観測装置と成り得ればそれで良いと思っている。
 環境管理型権力もまた国家的な暴力だと思う。公園には砂場があり、ブランコがあり、シーソーがあり、雲梯があり、ベンチがある。ドラえもん的空き地はなく、公園で子供は遊ぶ様になった。想像力の欠如、とは一方的な見解だと思う。子供は何もなくても遊ぶことができる。空き地さえ提供してあげればそれで十分だと思う。が、子供は砂場遊びを覚え、ブランコを覚え、シーソーを覚える。後にブランコやシーソーをネタに物理を教えられ、砂場と花壇の差を理科で教わり、遊ぶときは砂場で遊ぶ様になる。結果的に安全を手に入れたと言えるだろう。が、それは一つ自由を失ったことに他ならない。何かを与える、ということは選択の余地を一つ消す、という可能性を含んでいる。
 子供だから裸の王様を指摘できるのだ。子供は子供という言葉を超えて、様々なことを教えてくれるのだ。それも強制的にではなく。ただ単に「王様は裸だよ!」という現実を提供してくれるのである。