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最近は写真日記。

フレーム人間と常識人間、もしくは思考停止

現実世界で人工知能が、たとえば「マクドナルドでハンバーガーを買え」のような問題を解くことを要求されたとする。現実世界では無数の出来事が起きる可能性があるが、そのほとんどは当面の問題と関係ない。人工知能は起こりうる出来事の中から、「マクドナルドのハンバーガーを買う」に関連することだけを振るい分けて抽出し、それ以外の事柄に関して当面無視して思考しなければならない。全てを考慮すると無限の時間がかかってしまうからである。つまり、枠(フレーム)を作って、その枠の中だけで思考する。

だが、一つの可能性が当面の問題と関係するかどうかをどれだけ高速のコンピュータで評価しても、振るい分けをしなければならない可能性が無数にあるため、抽出する段階で無限の時間がかかってしまう。

これがフレーム問題である。

あらかじめフレームを複数定義しておき、状況に応じて適切なフレームを選択して使えば解決できるように思えるが、どのフレームを現在の状況に適用すべきか評価する時点で同じ問題が発生する。

 Wikiより。
 人工知能におけるフレーム問題を知ったのはEDENだった。二足歩行だったり、フレームだったり、アトムへの道のりは遠いと思ったものだった。
 「母親が常識人で、窮屈だった。あんな人間になりたくない」そう言っていた人は、その人自身も結構常識人で、「秋葉原好きな人って何なの?意味がわからないんだけれど。オタクって気持ち悪い」と、秋葉原とオタクを同一に語っていた。フレームとは要するに、意図的に思考停止にさせることでもある。見えていることを見ないようにする、見えない様に装うことでもある。親から子へという遺伝は、生物的遺伝よりも、習慣・文化的遺伝の方が質が悪い様に思える。遺伝子的遺伝であれば、ある程度見切りがつく。格好良かろうが可愛くなかろうが、それは結局他人の評価だ。が、親を外、他人と見始めた時、自分の中に同じ性質があることに気がつくタイミングがある。そのタイミングで認識し、受け入れるか拒否するかで、その後の方向性が大分異なる。ましてや気がつけなかった場合は、「あんな親にはなりたくない」のその「親」に自分がいつしか成り、子供からまた「あんな親にはなりたくない」という連鎖を生む可能性もある。
 人の親になってみて、自分がどう扱われていたか、自分がどうされたかったか、そして自分がどうされたくなかったのか、色々と考える。そして当時自分が感じたような「あんな親にはなりたくない」を具体化してみる。嘘をつかないこと。一緒に遊ぶこと。感情的に怒らないこと。わかる様に説明すること。そして、自分の価値観だけで世界を決めつけないこと。僕は未だに自分の親の呪縛から逃れられない部分がある。もちろん投影という形で、自分の子供に呪縛をかけるわけではなく、可能な限りその呪縛は僕で留められればと思っている。
 先述した人は多分もう人の親になっているだろう。自分の子供が、自分が受け入れられない世界に染まったとき、どういう反応を示すのだろう。「常識では考えられない」と思考停止になるのか、一緒になってその世界を考えるのか。常識とは簡単な言葉だと思う。常識、という言葉を発した瞬間に共有幻想が出現して、圧倒的多数に支えられている気分になる。それを繰り返す毎に自分のフレームが決まっていく。常識の範囲内と範囲外。常識内だけで考えていれば良い、という風に、自分の価値観の枠組みが決定される。
 人と人の関係はある意味、そのフレームとフレームの重なりだとも思える。他人のフレームに触れたときに、受け入れられるか、もしくは拒否することしかできないか。その結果を全て「常識」と「非常識」の所為にして思考停止に陥るか、「なぜ?」と立ち止まれるか。子供を育てる、という行為はその繰り返しだと常々感じる。育てる側に完璧な正当性はない。よって立つ正当性は自分にしかないのだ。であれば子供の成長に反応して、自分もアップグレードを繰り返さなければバランスが取れない。子供に抜かれない様にするのではなく、既に抜かれている子供に追いつく為にである。
 なぜなら子供にフレームはないのだから。人工知能の様に無限に思考を続ける存在でもある。生きやすい様に、世界のフレームを設定してあげることが、親の第一の役目であり、それこそが親の役目の全てだろう。要するに常識を教えることが重要なのではなく、死なない為にはどうすれば良いのかを教えることが重要なのではないだろうか。