apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

しつけと教育、そんな僕はモンペア

 「ああ、モンスターペアレントに成りやすいかもね、君は」と奥さんに言われた。事の発端はこうだ。ジュニアの通う保育園では連絡帳というものが存在し、子供のその日の行動や体調の変化を、親と保育士との間で情報を交換日誌的に共有している。「今日は公園に行きました。ドングリを拾って喜んでいました」「葉っぱの鳴る音に興味津々でした」など、当初はほのぼのとしていた。が、最近保育士から渡される内容が「他児はおむつが外せているのに、未だにトイレのタイミングがつかめません」「多児はお箸を使えているのに上手く使えません」と変化した。ジュニアは2歳半、ちびジュニアは1才4ヵ月。迎えに行くと「ちびジュニアちゃんは凄い良い子なんですけれどね。ジュニアちゃんは慣れなくって」と言葉に出して言われるそうである。
 モンスターペアレントの出番である。「保育士って、何?本当に保育士の資格あんの?初等教育やってんの?学部出で、2年位で教育者のつもりなの?バカなの?」的なことをとりあえず奥さんに言ってみた。「知らん。仕事だろ。おまけにパートだろ。まぁでも働いてる側としたら、『何もせずにただ見てくれていたら良い』だけなんだけれどね」と僕の憤りをすかした。僕は教育者ぶる人は教育者だと思わない。同様に常識を振りかざす人に、良識を発見することができない。
 「近親相姦てさぁ、倫理上の問題であって、ヤルこと自体は医学的には問題ないじゃん。って話がネットにあって、レヴィ・ストロースの話とかは置いておいて、良識的な産婦人科医や内科医は、『妊娠した場合、遺伝的疾患が出る可能性が高いだけ』『特に問題はない』『あるのは倫理上の問題で、医者からの意見に意味はない』とちゃんと線を引いていたんだよね」という話題を、僕は持ち出した。要するに「教育者としての保育士」ぶるのであれば、初等教育上、2才で箸が使えない問題点をわかる様に出せよ、それ以外は主観的なしつけの話だろ、と言いたいわけである。身体ができあがってないのに、指ができあがっているわけがない。その日は「まぁ沢山子供を見ていれば、やっぱり個別対応が難しいでんしょ」と華麗にスルーされて終わった。
 そして次の日、家に帰るとリビングのテーブルにあからさまに連絡帳が置いてある。中を見る。「今日のジュニアくんは他児が食事を初めても席に着かず、食事を初めても箸が上手く使えずに時間がかかっていました。他児がお昼寝に入る頃になっても、なかなか食事を終える事ができません。お家でも箸は使いませんか?」という内容だった。僕はまたか、と思った。そして目を落とすと既に奥さんからの返答が記入されている。しかも保育士からの連絡より3倍ほど長く、ノートを埋め尽くしている。一言で言えば「何様だ?」という様な内容だったと思う。モンスターペアレントがもう一人。合わせてペアレンツ。
 前提条件がわからないだろうから、一応説明しておこう。奥さんは週3日で、病院で働いている。その病院には、そこで働くママの為の保育所があって、そこで見てもらっているのである。つまり市とか私立とかの保育園ではない。働く理由もお金ではなく、奥さんのストレス発散と、子どもたちの保育園トライアウトがメインである。
 僕は教育者ぶる人は教育者だと思わない、と書いた。ほとんどの場合、教育者たろうとする人間はその本質を見逃す傾向にあるからだ(経験による、主観ですが)。大学の頃に書いた小論文に同様の事を書いた。「水を飲む、という本質的な行為を評価せず、どんな器で、どの様に飲むかで評価される」と。当初の問題に立ち返る。初等教育において、「食べること」を教えることと「箸が使えること」ではどちらが重要か。ジュニアは家の中でも、外食をしても、食欲旺盛である。食べ物を見ると「ごはん」と言って、すぐに席に着き、食べることを「楽しみ」にしている。初等教育において、それが一番重要ではなかった。行為に対する興味心と喜びや楽しみを感じることが優先事項ではなかったか。
 教育とは文化が変化しても生きるものだ。価値観に縛られず、転用が可能であり、科学的客観性に準ずる。宗教と相反する部分があるが、理数系の教育は、幼児教育でも可能だと思う。同様に芸術関連や、語学関連も、可能だろう。教育法を学んでいる者であれば、任せる側の信用度も上がる。
 しつけとは文化特有のマナーを教えることである。食事マナーから生活マナーまで、文化が変われば価値観も変わる。つまりは主観的なものである。麺類をすする行為は日本では了解可能でも、欧米ではタブーである。夜中に女子一人で歩いていても、日本は安全だが、一歩海外に出れば危ないです、という様なものでしかない。
 そんな風にして、僕は自分が間違いなくモンスターペアレントになるな、と思った。だって僕は教師という人間を最初っから信用していないから。自分にとって思い出に残っている教師は、親にとっては印象の薄い教師。自分にとって害でしかなかった教師は、親にとっては教育熱心。つまりは今後の子供たちの教育課程において、僕に口を出してくる教師は禄でもないってことだ(超主観ですし、釣りですからね)。僕も教師という名のつく仕事をしていた。教えることができた、引き出すことが出来たのは、この世界で生きていく術だけだと思う(今ではプロボーダーだったり、世界で活躍だったり)。
 一応先に言っておこうと思う。常識や正義感でぶつかってくる教師を、僕は間違いなく卑下するだろう。感情だけならわかりやすい。個人的意見として捉えるだけだ。だがそれを正当化する為に、無意識に共有幻想を持ち込む人間は反面教師にしかならない。それだけで存在価値は終わりだ。墓場まで正義を振りかざして行けば良いと思う。要するに僕みたいなものなのだから、それ以上の僕でなければ意味はないのである。つまりは最低限の学術的証拠や科学的根拠を伴って来たら良いと思う。
 2歳半で箸が使えないことって、そんなに問題なのか、とりあえず誰か証明して欲しい。成人しても箸を握ってる人間に対して証明して欲しい。それができてから、しつけに口を出せと言いたいのである。
 ちなみに家では箸で食べてますし(食材によってフォークやスプーンも使い分けます)、トイレに行ってうんちとおしっこしてますよ。