apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

調整弁かバッファかマルチチュードか

「いまローカルなものが賞賛されているが、そのさい、流通や混合に反対し、国家、民族性、人種、人民などの壁を強化するようなことがあればそれは退行であり、ファシズム的であるとすらいえる。だがローカルなものという概念を孤立や純粋性によって定義する必要はない。じつのところ、ローカルなものを取り囲む壁を粉砕するとすれば…ローカルなものを普遍的なものに直接に結びつけることができるだろう。具体的普遍によってマルチチュードは場所から場所へと移動し、その場所をみずからのものにすることができる。」

ハート、ネグリ

「草の根レヴェルでグローバルに展開されつつある援助貿易帝国主義への集団的抵抗運動に身を置いているときには、各自がそれぞれの価値の鎖を持ったローカルな自己管理をめざす運動が直接的にグローバルな動きに対して妨害行為に出ようとするような闘争の場に身を置いているのだ」

スピヴァク
 〈帝国〉とマルチチュードだけでは腑に落ちなかったというか、ただ単に僕が届かなくて理解の範疇を超えていただけなのかもしれないけれど、労働問題を背景にフォーディズムレギュラシオン理論)とポスト・フォーディズムを踏まえてみて(ポスト・フォーディズムの設定は困難ではあるが)、やっと一つハードルを越えられそうではある。社会学的観点で〈帝国〉を僕は捉えようとしていたけれど、実際のマーケットにあってグローバル経済(表現が古いかもしれないが)を目の当たりにしてやっと新古典派だったりケインズだったりマルクスだったりを「実感」することができた。調整原理か介入かで、米国と日本の姿勢はまるで異なっているが、オバマ政権にあっては積極介入で知られるガイトナーケインズ的調整原理を打ち出すことだろう。

〈帝国〉的グローバリゼーションの根本特徴の一つは、「外部」の内部化に求められる。つまり、一般に消費者や生産の回路の外にあると想定されるサハラ以南の地域でさえも、じっさいには「債務」というかたちでグローバル資本の管理下に置かれているという事態に端的に映し出されているように、もはや「外部」は外延的にも内包的にも資本のもとに包括されてしまっているのである。

水島一憲
 ポスト・フォーディズムの側面をそこに見ることができる。「時間」労働者が、時間「外」であったとき消費者として存在することができる。消費のみならず政治的行動も可能であった。それを支えたのが大量生産・大量消費システム、いわゆるフォーディズムではあるが、「24時間戦えますか」となった現代においては、消費者としてあろうとしても結果的に労働者として、グローバル経済に取り込まれてしまう。つまりは時間「外」はなく、何らかしらの労働に従事していることになるのだ。それを可能にしたのはネットワークと時間的フレキシビリティ、そして空間的モビリティということになり、上述の様にマクロ観点にあってもグローバル資本の管理下に置かれているという現実は無視できないだろう。
 派遣社員は優先的な調整弁でありバッファとして機能する、と企業側は捉えている。労働者派遣法の改正によってもたらされた2009年問題。製造業にあっては自動車業界の悪化に引きずられてはいるが、ここぞとばかりに消費的に派遣労働者の契約終了を行っている様にも捉えられる。楽観シナリオであれば2009年下期には経済は上方に向かうと考えられ、最低シナリオにあっても2010年の第1四半期には持ち直していると言われる。そういう意味ではバッファとしての役割は全うしている。現状を捉えればその為の派遣契約でもあるのだ。同時にそれはポスト・フォーディズムとしてのトヨティズムの終焉ということも言えるだろう。2009年、2010年に景気が上向いた状況で、労働者はまた派遣契約を行うのだろうか。フォーディズム的労働を行いながら、フォーディズム的分配を得られない居場所に戻るのであろうか。現状よりも今後が気になる現象である。