apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

そうか、そういうことか

 新自由主義の否定、市場の信用収縮と国家主体の介入、小さな政府から大きな政府への転換。なにが、そういうことかって、前回上げた提案の追加提案で具体的な組織編成を作り終えたのだけれど、一つ気が付いたことがある。内容は要するに個人のスキルに頼ったやりかたじゃなくて、組織的に最低限の企業サービスを提供できる体制にしましょうよってことで、しごく当たり前の話しになっている。何でかっていうと流動性がある程度確保できる経済状況であれば、何をしてもどうにかなる。身も蓋もないけれど、経済状況が健全な時代の方が、オレオレ詐欺とか蔓延して、経済が下向けば消費者の財布が一気に堅くなってそんな詐欺に引っかかりにくくなるイメージ(イメージであって、実際なんて知らん)。
 景気が良ければ何でも売れるわけで、景気が悪くなれば淘汰が始まる。そんなわけで企業は事業をできる限り縮小してランニングコストを減らす。合成の誤謬って言われるけれども、ミクロ的に正しい行動をしても、結果的にマクロ経済にダメージを与えることになる。要するに経営が本格的に悪くなる前に、雇用を削ったり、賃金を減らしたりすれば、失業者や給料の少なくなった消費者は、無駄遣いをしなくなって、お金が回らなくなるって話し。で、ケインズが言った様に、一時的にでもお金の流動性を潤滑にする為に国家介入が効果的ってわけだけれども、それが現在の組織体制にあっても、ある程度効果的になるってことである。
 新自由主義は個人、つまりは市場を信じるということでもある。同様に個人のスキルに任せて企業の収益に任せるってのも同じ原理ではある。逆に市場は信じられないから、方向性を明確にする為に国家が介入しますよってのと、個人活動には任せておけないから、会社がしっかりと戦略とか方法とか出しますよってことが言える。何が言いたいかってこの年になって、経済と会社の相関関係というか、一体というか、そういうことを感じたのです。
 で、もちろんそんなところで終わらないで飛躍します。ポストモダンイデオロギー、つまりは大きな物語を喪失した時代だと言われる。えっと、つまりそれって上に書いた様な状態なんじゃねぇの?って思うわけだ。社会的問題に換言すれば、時間給で働けて、責任問題の発生しない時間を自由に費やしますよ(専門用語?で換言するならば、ポストフォーディズム的労働ではなく、フォーディズム的労働で保証された消費者としての自由)って派遣雇用がポストモダン的だとすれば、国家が出動して、嫌でも雇用を創出して、労働と賃金を保証しますよって思想は、モダンのリバイバルなんじゃねぇの?っていう、そうだったのか的お話し。意味、わかりますか?経済と組織と社会のお話しでした。