apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

難しくて読めない

小学生にはむずかしい文章より。
 小学生向けに文章を書けとオファーがあったそうで、文章を書いたら以下の返答だったとか。

しばらくして、やはり編集会議でボツになりましたという知らせが来た。
小学生にはむずかしいだろうという理由である。

 本人的には予想通り、というか、多分こうやってネタにするためだろうとは思うのだけれど、一部抜粋。

過去に起きたかもしれないことを想像することはたいせつだと私は最初に書きました。それは、今この瞬間に、私たちの前に広がる未来について想像するときと、知性の使い方が同じだからです。
歴史に「もしも」を導入するというのは、単にSF的想像力を暴走させてみせるということではありません(それはそれで楽しいことですけれど)。それよりはむしろ、一人の人間が世界の運行にどれくらい関与することができるのかについて考えることです。

 この内容がドラゴンボールだったり、ワンピースだったりするとOKなわけで、長い文章だったり言い回しが若干難しかったりするとボツになるわけである。漫画は漫画の役割、というか需要に応えるものがある。文章もまた同様なのだが、最近の学部生の話しとか見ていると、「むずかしい」という理由でボツにできる教育体制というか、正にゆとり世代というのか、そこら辺が笑える。
 「バカにわかる言葉で話せ。バカにわかる言葉で提案しろ」そう他部署の上司?に教えられた。id:laquilaからも「プロのコンサルの凄いところは、専門用語を誰でもわかる様に、理解できる様に話すことだ」とアドバイスをくれた。「ある意味上司も同僚も、話しをするときはプレゼン的コミュニケーションを意識した方が後々良い」とも。それはわかる。換言すれば政治だ。でも、教育もその範疇になったらダメなんじゃないのか。わからないものをわかる様にしていたら、教育ってダメなんじゃないのか。
 文章が難しいとか、難しい言葉とか、難しい本とか、言っていることが難しいとか、バカだからわからないとか、そういう理由が当たり前になっていて、というより、そういった理由に正当性を与えられていて、わかる様に話せない人間が悪いという風潮が笑える。そう言った人たちを見ると笑える。難しいからなんじゃなくて、要するにつまらないからだとはわかる。でもつまらないのはわからないからだ。わからないことばかりで、つまらないものが沢山あっても、「楽しいもの。簡単なもの」だけで満足できる世の中に僕は興味はないので、僕は僕の世の中がやっぱりあっているんだと思った。日本語は英語より、書き言葉のハードルが低い、と言われているが、もう英語的に、口語と文語の乖離が始まっているのではないんでしょうかね。