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最近は写真日記。

15の夜

 茶髪の何がいけないのでしょうか/意味のない校内ローカルルールには断固として反対するより。

越谷署の調べでは、事件当日、同校は卒業式。午前9時45分ごろ、女子生徒が遅刻して体育館に現れたところ、男性教諭に「スカートの丈が短い。髪の毛が茶髪だ」と指摘され、保健室で注意を受けていた。越谷署の調べに対し、女子生徒は「卒業式に出席させてほしかった」と供述しているという。

 中3女子「卒業式出たい」 茶髪注意され、教諭にはさみ押し当てるが元ネタ。

机の上にあった分解できるはさみの片刃ずつを両手に持ち、男性教諭(52)の背後から刃の部分を両肩に押し当てた。女子生徒は窓から逃げ出したが、別の教諭らに取り押さえられた。

 率直な感想として、日本が銃社会だったら、教師はみんな武装していないと命がない、と思った。
はてブでは「ルールはルール」という意見が結構多い。過去似たような事を書いたことがある。先生と生徒は立場は違うが場は同じで、

つまりは教師側のコミュニケーション可能領域は教育委員会であり、生徒側にその権限はない。学校、教師側の社会(コミュニケーション可)とは教育委員会を示し、生徒側は世界(コミュニケーション不可)でしかない。教師と生徒の間を保つツールは授業になるが、それを外れた、例えば生活指導においては双方に齟齬を生じることとなる。これはコミュニケーション領域の差異からくる齟齬だが、要するに「言葉が通じない」のである。それぞれが属する社会的価値観を一方的に強制すれば、結果的に支配的になる。僕がいた学校では、そういった関係性を承知している教師と、認識していない教師の間でもコンフリクトがあり、僕は何度か教師の愚痴を聞かされた覚えがある。

 例をあげるとキリがないが、とにかく執拗だったために、流石に僕も行動を起こした。僕は理事長と仲が良かった。納得がいかない旨を告げ、後々に校長との個人面談も行い、その場でも「暑いのに冷房をつけるわけでもなく、上着を脱いだら停学という論理はいかがなものか」と直訴した。結果的にベストだろうが、上着を着用しなかろうが、校内では良くなった。

 学校という場の権力構造はそんなものでしかない。その構造から外れている教師もいるが、それはそれで個別に対応すれば打開策はいくらでもある。コメント欄にある様な「不条理を学ぶため」は詭弁に過ぎない。また「社会に出たら不条理だらけ」も主観的過ぎて、賛成できない。不条理は結局のところ、本人の受け止め方でしかない。何度も書いている様に、今の社会には依拠集団を選べるだけの自由がある。それを選べないのは本人の不自由性だろう。それは結局会社で働いても同じことである。

 学校で何を学ぶのか。教師も仕事である。雇用契約に基づき職務を遂行している(はずだ)。中には「教育とは」と、労働から逸脱して「私領域」に入ってくる人間もいるが、「義務教育」を強制するのは教師ではなく、行政の仕事である。同様に教育現場に「暴力」があれば、抑制力は警察で裁くのは司法である。単純に割り切ればそういう問題である。
 では「暴力」とは何だろうか。「教育とは」と書いたが、教育もまた強制力が働けば「暴力」である。実際社会において目に見えない「暴力」はいくらでもあるのだ。ある意味その「暴力」の抵抗力を付ける、もしくは抵抗力を「育む」ことが本来的な教育ではないだろうか。要するに生きる術を学ぶ場所だと、僕は考えている。
 あくまでも僕の場合は、その「暴力」を利用した。教師もまた職場から離れれば一人の人間である。地域社会の中で生きる一人の人間なのである。その社会の中で色々な噂が流れればやはり生きにくくなるもの。学校という場でどれだけの権力を持っていても、そこから一歩外に出れば違う「ルール」があるのだ。ならばそちらの「ルール」で勝てば良い。
 「ルールはルール」、は割り切りやすい。が、それは思考停止でしかない。問題は次に何ができるか、である。ルールを変えるために行動するのか、ルールに合わせて自分を変えるのか。「茶髪で何が悪いのか」は、他人にとって見れば正ではない。同様に「染髪不可」は、国外に出れば正ではない。たったそれだけの話しである。交渉とはそういうものなのである。他人のルールと自分のルール、それを持ち寄った時に明らかな差異がある。そしてどちらにも正当性がある。今回の件の様に、超法規的(超ルール的)に、相手を物理的に傷つける方法をとったら交渉は負けなのである。外交が上手くいかないから、と戦争に持ち込んだら(戦争目的でない場合)、外交は失敗なのである。
 ルールが違うことを認め、それに対して感情的にならず、どうルールを変えるか、どうルールを変えさせるのか、そういったことを学ぶのが学校という場所なのだ。本来的に子供はそういうことを知っている。逆にそういったものを「見せない」様にしている「教育」が、やはり僕には「暴力」に思えて仕方がないのだ。