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最近は写真日記。

毎日が日曜日の様に

ここ数年、主に20代の方にキャリア相談を受けることが増えた。

大体において、

  1. 望んでいた仕事の内容と違う。
  2. これからのキャリアにおいて、今の仕事が何の役に立つかわからない。
  3. 今後の自分のキャリアが不安。
  4. もっと大きな(社会的インパクト?)仕事ができるはず。

という内容である。

 率直にいつも返している言葉があって、「そこまで仕事について、真剣に悩み考えられるのは凄いね」である。次に返しているのは、「やりたいこと、できること、稼げること、この3つは違うよ」と伝えている。僕は考古学を続けたかったけれど、それを続けるとなると今の収入どころか生活も担保できないことになる。それにできることは別にあるけれど、今一番稼げることを仕事にできているだけだ、と。

今となっては、僕もビジネスマンとして仕事をしているけれど、相変わらず僕には仕事のキャリアイメージは全くない。どんなビジネスマンに成りたい、とか、どんな仕事をしたい、とか、全くイメージも期待もない。丁寧に表現をするならば、どんな労働をしたい、というイメージは全くない。

未だに手に取る本は考古学・ローマ関連・歴史学の本であって、ビジネス書は数えるほどである。そういう意味で、僕にキャリア指南をするスキルはそもそも鍛えられていないのかもしれない。そして、やりたいことで稼げない(僕が望む額に及ばない)、ということを身を以て経験している。

それでも思うことがある。「望んでいた仕事をすることで、何が達成できるのだろう?」という質問をすると、往々にして答えに窮している様が伺える。何故だろう。

やりたいことのその先を考えている?

 ビジネスに全く興味のない僕でさえ、就職活動を全くしなかった僕でさえ、大学卒業当時後輩から「カリスマ美容師になりたいので、美容師を目指そうと悩んでいます」と相談され、「それで?美容師は国家資格を取れば成れるよね?カリスマになれるかどうか僕にはわからないけれど、カリスマ美容師になって、君は何を表現したいの?カリスマ美容師になってから、何をするの?カリスマ美容師になると何を得られるんだろう?」と質問したことがある。

その時の後輩の姿と、とても語弊がある言い方かもしれないが、日本でもトップクラスの教育を受けて来ている20代の受け答えが全く同じである。かつ、日本の大手企業に一度でも就職したことがあるビジネスマンでもある。資格を取り、その職に就くこと。望んでいた企業に採用され、その会社の社員として名刺を持つこと。その先に何があるのだろう。

國分功一郎氏の書籍でも読めば半分は片付く話しかもしれないけれど、実際のところ継続的に学んでいる人は本当に希少である。特にビジネス以外のディシプリンまで幅を広げる人にあまり出会わない。教養はグロテスクである、という言及が以前あったが、そもそもビジネス社会においては教養のボトムもビジネスに飲み込まれていてその範疇を出ないのである。新書ビジネスの弊害だろうか。本を読んでいれば学んでいる体は何だろう。

なぜそこまで自ら労働者として在ろうとするのか

そう言えばタイトルは土曜日じゃなくて、日曜日の意味があって、明日が月曜日となると休みながらも明日は仕事である、という変なプレッシャーがかかる。いわゆるオンでもオフでもない状態になって、身は入って無いまでも、何を準備するか考えていて、思考はフローしている。

多分、そんな低ストレスで考えながら休む、否、休みながら考える、という状況が日々続いていくことができる様なものを見つけられることが、冒頭のキャリア不安に対する一つの回答の様な気がしている。

僕らには選択の自由がある。今となっては初等教育においても登校しなくても済まされる。仕事も同様である。嫌なら辞めれば良い。でも、稼がなくてはいけない理由があるのであれば、それ以外に労働する意味はない。選べないのは稼げるスキルが無いからである。選択する自由を得られていないからである。
※ここでの範囲は、学ぶことへの資本懸念が無かった方々を対象としているので、そのスキル取得は、資本的な先天的課題である、というのは棚上げする。

「もしすでに10億円くらいキャッシュ資産を持っていたら」何をしたいのか?何に渇望するのか?個人に閉じて、限定的な自由を消費するのか?そんな質問がわかりやすいのかもしれないと思った、2020のお盆である。