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最近は写真日記。

The Passion of the Christ:キリストの受難:パッション

 日曜日にThe Passion of the Christを観た。伊題はLa Passione di Christ。メル・ギブソン監督作品で、オーストラリア留学時代に観たBrave Heart以来か。ブレイブハートはテレビで放送される度に見入ってしまう作品で、このキリストの受難もメル・ギブソンらしい映画なのだろうと予想していた。信じるもののために命を惜しまないというのが、彼の作品の傾向か。予想通り、目を背けたくなるような過激なシーンや、キリストが受けた不条理な受難など、全てのシーンがそれぞれ一枚の計算され尽くした絵画の様に演出されている。
 僕は無宗教だ。無神論者でもないが、それは一神教の神とは明らかに違う。ユダヤ、キリスト、イスラム。どれも言葉は違えど、同じ神を指している。僕がイメージする神はそういうものではないし、祈らなければ救われないとか言われれば、他人を救う気があるならば祈ってる両手を開いて誰かを救えと反論したくなる。遠藤周作はまさにそこに憤りを感じていた。修道士的な生活を送ることだけが、神を信じる道なのかと。彼の書いた深い河は、インドのガンジス河、そしてヒンドゥーの神々とキリストの対比で物語が進められて行く。その中で「神は働きなのだ」と表現している。祈りを捧げることではなく、人の行動の中に神が宿ると。
 日本でも公開されるようだが、日本人には到底理解できないだろう。話しは最後の晩餐後から始まり、キリストが磔にされて終わる。キリスト最後の12時間たったそれだけの話しだ。聖書を読んでいれば、台詞も話しの流れも、またその背景もわかるが、ミッション系かキリスト教信者でもなければ、日本人にはまるで遠い話しだ。例えば桃太郎が鬼を退治したその瞬間を外人に見せてもそれまでの文脈がまるでわからないようなものだ。
 ローマの属州パレスチナ地方であるためにラテン語アラム語が用いられている。ユダヤ人最高法院とローマの総督との関係など、イエス・キリストが生きた時代のバックグラウンドや経過がわからないと、この映画はただの虐待映画で終わってしまう可能性がある。いつもは吹き替えてしまうイタリア映画だが、この作品はオリジナル言語で、字幕方式で公開されていたので素直に嬉しかったが、映画館はガラガラだった。この映画を観た、イタリア人はどのような印象を受けるのだろうか。キリストを鞭打つのはローマ人であって、それはつまり彼らの誇る祖先である。またいい加減な言い訳とかをするのだろうか。
 反ユダヤ主義感情を触発させるとか言われているようだが、それならば今までのユダヤ人虐殺などの映画は構わないのか?となってしまう。自分の立場が悪くなるようなことを言われたり、書かれたりすると反発する場合はそれが真実を告げていることが多い。僕がこの映画に受けた印象は、まさに現代の米国だ。ユダヤ人に唆されて動く大国。ユダヤ人の手は血に染まることなく、大国の兵隊がその無知の為にコントロールされる。だとするとキリストは何の象徴なのか。神か愛か、平和か。後2000年経ったらその答えがわかるかもしれない。