apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

緑の座:蟲師

 未だに原作を読めていないがとりあえずアニメ第1話を鑑賞。作画は力が入っており、そのままクオリティが維持できるのか楽しみでもある。今回登場したシンラ。何処かで聞いた声だな、と思っていたらレントン三瓶由布子だった。
 作中思わず頷いてしまったのはギンコの台詞。

「感覚を分かち合うのは難しい。相手の触れたことのない手触りを、相手にそのまま伝えることができないように。見たことのない者と、その世界を分かち合うのは難しいさ」

ネタバレあり。
 前半部はコミュニケーション能力次第では何とか説明はできそうだが、後半部の「見たことのない者」に関しては、コミュニケーションだけではどうにもできそうにない。ここで「見る」とは、つまり蟲を見ることを指しているが、普段の生活において、話の先が「見えていない」場合、どうやってもコミュニケーションすることができない。例えば僕の目指しているものがあったとして、それは僕には見えていても、他の人に見えていない場合には、どうやっても伝えることが困難である。具体的に言えば学問の先に何を目指しているかなんて、多分本気で学問に向かい合っていなければ見えてこない。見えていない人間からすれば、「学生でしょう?勉強していればいいんだから、楽じゃない」と言われて当たり前なのである。そういう場合に僕の悪い癖で、コミュニケーションを閉じてしまうのだが、シンラの「ばあちゃんと僕は、そこだけは分かり合えなかった」という感覚、つまりは物悲しさが痛いほどわかった。自分の好きな人間に、自分の見えているものが見えないことほど、物悲しいものはない。
 ただ作中でレンズは、幼少の頃に蟲に出会っており、その出会いによってレンズは変わってしまう。半分をこの世に、半分をあちら側に。出会えるということは、「見えていた」ということである。そしてその「見えていた」半分はあちら側においてきてしまう。ギンコは言う。「シンラ。お前の知っている婆さんは半分でしかなかったんだよ」と。結果的にレンズはもう半分と一体になるのだが、この時にシンラは大粒の涙を流す。この涙に関してギンコは「レンズの感情、感覚がつぶさに流れ込んできたのだという。ただ、ただ、杯が割れてしまったことが悲しくて仕方なかったのだという」と言っているが、これはシンラがレンズと分かり合えたという意味での涙も含まれているのだろう。
 シンラはレンズばあちゃんに「見て」欲しくて、絵に描きコミュニケーションをはかったが、レンズばあちゃんはそれを「気持ち悪いもの」として拒絶した。しかし、真のレンズばあちゃんは、既に蟲体験があり、しかもその出会いの中で「孫の目付け」としての自分を選択している。その孫は「生物世界を変える程の得意な性質を持って産まれてくる」ために「目付け」を必要とすると、レンズは説明を受ける。つまり真のレンズはシンラがそういう能力を持っていることを既に知っているのである。シンラが「見て」欲しいと願って、絵に描きコミュニケーションをはからなくても、真のレンズはしっかりと「見て」いた。そして何よりも、同体験をしている。共有体験とでも言うのか。つまり同じものを「見た」結果、コミュニケーションは円滑に進むし、シンラの「そこだけは分かり合えなかった」という物悲しさも払拭されるわけである。
 原作ではどういう風に演出されているのかわからないが、今回のこの話しは、そういったことを考えさせてくれる内容だった。今後に期待できる話しである。