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最近は写真日記。

システムシフトとパラダイムシフト

 会社の制作環境が入れ代わる。MacOSが、9からXに変わるわけでもなく、QuarkからInDesignへシフトするわけでもない。OSがMacからWindowsに切り替り、アプリケーションは自社ソフトを用いることになる様だ。
 僕が今いる会社では、関東と関西で制作環境が大きく異なる。関東ではMac & Quark、関西ではWin & 自社ソフトで制作を行なっているのだが、その関西のシステムが関東に移築される様なのだ。ただ、まるまるシステムをコピーということではなく、関東に合わせた環境を構築する様だが、システムが変化することによって、パラダイムも変化しそうだ。
 実のところ「この先システムが変化する可能性があります」と言われただけで、移行スケジュールや、理由や思想はまるで聞いていない。分かっているのは、今までのQuarkの自由性を排除して、自社ソフトによる定型制にシフトしていくということである。
 そう説明されて、目標点が何となくわかった。DTPとしての自由性を向上させたければ、InDesignへの移行が現実的だろう。今ならOSのデュアルブートも可能で利便性は高い。しかしそれらの可能性を切り捨て、Windowsで自社ソフトを選んでいる。紙面を定型化することに重点を置いているのだ。つまり自由性を捨て汎用性を選ぶ理由がある。
 今までのタスクでは、営業が原稿をとってくれば、制作にフローしていったが、システムが入れ代わることによって、そのタスクどころか、営業の方法論まで変化することになる。つまり紙面の自由性が減り、定型化されることによって、今までの様にただ「原稿をとってくる」ことが困難になる。最初から「定型でここまでです」とシステムを開示することによって、「自由にデザインできないんですね」と断られる可能性が増す。これは社外的にはマイナスと捉えかねないが、社内的にはシステムが統一され、制作側からすると余計な修正が減りコストを削減できるというメリットがある。何より、制作基準を定型化することによって、今までの「営業ありき」の体制から「制作ありき」の体制へとシフトする。つまりは下部と上部の構造が入れ代わることになる。
 定型化という現象で、ポケベルを思い浮かべた。僕がポケベルを利用し始めた時分にはまだ数字しか使えず、登録されている定型文を利用することでしか文章化することができなかった。そのため、ある程度のコミュニケーションが全て定型化され、それらを入れ替えて駆使していた。もちろん数字での文章化もしていたが、それらもまた事前に約束された言葉に従っているだけなので、疑似定型文だったわけである。ツールでのコミュニケーションが定型化され、そのツールを用いたコミュニケーション対象も定型化される。
 またGoogleの狙いも思い出した。インターネットと情報操作で書いたことだが、「googleポータルサイトとして使っているユーザーが前述の様に過半数を閉めれば結果として消費されるHPも限定されたものになってくるだろう。例えば何か新しい現象に対しての定義を知りたくてgoogle検索をかけた場合、もしかしたら情報操作された定義が一般化する危険性もある」。つまりはサーチエンジンというシステムを入れ替えるだけで、価値観を操作することが可能になる。
 上述の会社のシステム入れ替えから色々と読み取ることができるのだが、システムには思想があり目的がある。OSを入れ替える、もしくはアプリケーションを入れ替えるだけでひっくり返るものがある。これは企業だけでなく社会も同様なのだろうか。直感でわかることは、社会構造はそこまで単純ではないし、下部や上部など割り切れるものがないと思う。システムが入れ代わっても、全てに影響するわけではなく、パラダイムがシフトするのはその周縁に始終する気もする。
 仕事をしていて、「ああこれは面白い現象だな」と思ったのは多分これが始めてだけれど、実際の業務においてそんな詮索は不必要で、要するに労働力というものは蹂躙されてこそのものなのだな、と感じた。