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apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

自分の力と時代の力

「自分の力と時代の力」講演録(JTPAシリコンバレー・カンファレンス2009年3月21日)より。

最後になりますが、もし皆さんが20代前半だったら、留学することをお勧めします。これからの時代は、とくに学問の世界では、英語で何かを書かなければ存在しないのと同じだし、インターネット空間も、英語圏は圧倒的な進化を遂げているけれど、日本語圏はそうでもないとか、いろんなことがあります。

 「とくに学問の世界では、英語で何かを書かなければ存在しないのと同じ」これは僕自身何度も言われた言葉である。西洋史にあっては当然のことが、考古学では「必要ない」と言われることがある。対象が国内であれば母国語だけで良いのだろうか。対象が国外だから外国語で書かないといけないのだろうか。本質は全く違うところにあるのに、僕が日本で考古学を学んでいる時はあからさまに「外国語なんていらない」という人が多かった(それが三流大学たる所以だと思うし、他大学では意識が違っていた)。
 コミュニケーションと同じである。分かる人にだけ話す、と全体に話すけれど分かる人だけ分かれば良い、では分母が違う。何よりも「全体に分かる言葉で話す」という意識の差異が、その後の学問の発展を占うものになるのだろう。論文は引用されて存在する。「英語で何かを書かなければ存在しない」は、結局日本語に固執する以上、国内でしか通用しない、海外では「引用できない=存在しない」という状態になるのである。
 「でも迎合する必要性はないと思います」ある社会学者とkojiさんの会話を今でも覚えている。飲みながらグラムシの話しをしていて、その延長線上で「もっと日本人は英語で論文を書くべきだ」という話しになった。「日本人が日本人として西洋を批判する以上、日本語で書く意味はある。但し英語でも書かないといけないのは基本です。でも西洋に迎合する必要性はないと思います」そんな内容をkojiさんがワインを片手に、それでも真剣に話していたことを覚えている(真意が違っていたらすみません…)。
 「スペシャリストではなく、ゼネラリストを目指しなさい」鶴岡真弓さんが僕にくれた言葉である。換言すればミクロではなくマクロに考えろ、ということである。イタリアの授業だったり、テストだったり、カンファレンスだったり、本当に世界各国から人が来ている。イタリア人がイタリアなまりの英語で、頑張って講演している。テストでも「日本人?そう。英語が良いかい?それともイタリア語?」と言語の選択肢をくれる。日本でテストを受けてもそんな選択肢には出会えない(外国語試験の選択肢はあっても本試での言語選択はない)。
 インターネットは進化している、と言われる。広告ターゲティングは「どこ」ではなく「だれ」にレイヤーを変えた。学問は進化しているのだろうか。考古学は進化しているのだろうか。一般イメージ(メディア需要としての)の日本考古学=卑弥呼邪馬台国の呪縛はいつ解かれるのだろうか。何よりも「日本考古学」という枠組みから、いつ脱構築できるのだろうか。「考古の閉塞感ってツールを考古化することに必死すぎ」は的を射ている。誰が言ったかは伏せておこう。
 クラウドだろうがSAASだろうが、どんな名前が付こうが要するに外部記憶装置(インターネットを介したDBなど)を普遍的に如何に利用できるか(ユビキタスコンピューティングでも良い)が、昨今の潮流ではあるけれど、論文を英語で書くという作業は、システム管理上の言語統一くらいだと思っている。「閲覧者を待っている」マーケティングは既に売れる仕組みではない。「閲覧者にプッシュし、閲覧者がそれをカスタマイズする」要するにユーザに「探させない」ことが今のマーケティングの本流となっている。その為の言語フラット化と考えれば、「外国語なんていらない」という反論は的を射ない。DBという大きな物語に対抗する個人であったとしても、言語がかみ合わない以上、マルチチュードとは相容れない(マルチチュードが有効かどうかはまた別の話しではあるが)。
 実際は英語でなくても良い、と思う。日本語以外であれば何でも良い、とも思う。日本語でしか書けない、という状況に陥らなければ。純粋学問としての、それこそ「日本語でしか表現できない批判」というメリットは、その日本語を読める外国人に「プッシュ」できて始めて存在するのだ。それが「英語でも書かないといけないのは基本です。でも西洋に迎合する必要性はない」の言わんとすることだと、僕は考えている。