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最近は写真日記。

誰のためのセキュリティか。何のためのセキュリティか。

 ゲーム禁止の家庭の子、その後は?YOMIURI ONLINE「発言小町」

親戚にテレビを見せない、テレビゲームをさせない、お菓子を与えないという方針の家庭があります。子どもは小学生の男の子です。その子は、よその家では夢中になってテレビを見て、ゲームをやって、お菓子も食べています。
そういう方針でお子さんを育てた方にお聞きしてみたいのですが、親に反発などをしだす、小学校高学年や中学生くらいになってもそういうのを親も子どもも守ってましたか?
また、その年頃にはどういう遊びをしていたのですか?やっぱり想像力が豊かな子に育ちましたか?
その家庭のやり方に口出しをする気は一切ないのですが、大きくなったとき、懐かしのアニメの話しやお菓子などの話しに入れないだろうなあと思いました。

 「禁じられたゲーム」環境で子供はマトモに育つか?-霧笛望のはぐはぐ電脳小物 にて、読者の解答をまとめている。

代表的な肯定的意見
・特にテレビが観たいとかゲームをしたいと思わなかった。
・お菓子がそれほど好きではなかった。
・友達と話が合わないということはない。
 あるいは、そんな機会は少ない、気にならない。
・本や音楽に親しんだり、スポーツをする時間が持てた。
 得意になった、あるいは、趣味になった。
・ゲーム以外の室内遊びや外遊びができた。
・親と一緒に様々なことを体験し、コミュニケーションがとれた。
・勉強する習慣がつき(または努力しなくても)成績が良かった。
・想像力が豊か、センスがいい、レベルが高い大人になった。
・親に感謝している。

代表的な否定的意見
・友達の家庭と違うので、悲しかった。
・友達と話が合わなくて、つまらなかった。
・隠れて(よその家で)がっついてお菓子を食べた。
・隠れて(よその家で)夢中になってゲームをした。
・大人になって、反動で依存症、オタクになった。
・執着心がすごく、大人買いするようになった。
・大きくなって親に反抗した、親と断絶した。
・親を恨んでいる。
・協調性がなくなった、心の病気になった。

 ゲーム研究データインデックス内の、「テレビゲームのちょっといいおはなし」も参考になる。
 子供の性格に左右されるというのが総体的な意見として妥当だろう。あまりゲームに興味のない子供であれば、禁止にできるだろうが、ゲームが好きな子供は自宅でやらないまでも、友人の家でやることになり、結果的に親への隠し事が常習になったりする可能性もある。最近では子供に対するセキュリティが高く設定されているが、それが真の意味での「子供のため」に繋がっているのだろうか。
 何度か書いたことがあるが、自分自信が興味のないもの、または未知のもの等に対して過剰反応する人が時たまいるが、その価値観を他人(例え自分の子供であっても)に強制することに対して何の疑問を抱かない状態が恐怖である。ゲームに始まり、アニメ・漫画などのサブカル廃除等は良い例だろう。排他的宗教に通じるものがあるが、そこまで掘り下げる気はない。
 それでは何のために禁止するのだろうか。僕が子供の頃は禁止されて隠されても、見つけだしてプレイしていたし、友人宅に上がり込んでは時間の許す限りプレイしていた。ゲームを禁止すれば、外で遊ぶ様になる、というのは短絡的だし、ゲームが無ければ話題についていけない、というのもまたピント外れではある。
 2コンのマイクは何処へ?でも触れたが、家庭用ゲーム機が出始めた当初、2人プレイゲームが多く、見ていても楽しめるものが多かった。そういう意味で、Wiiのゲーム思想は原点回帰と捉えられるだろう。ファミコンが、ファミリーのためであった様に、Wiiはweのためなのだ。またPS3が失速した一因もそこに求められるだろう。ゲームは大別して、ソリティアか、それ以外のものに別れる。ソリティアとは1人で楽しむことのできるゲームを指し、PS3の目指した所がこのカテゴリーであり(ネットワーク対戦などはソリティアをフレームとした、多人数プレイだろうか)、逆にWiiソリティア以外を狙った感がある。ゲームをコミュニケーションツールと捉えるか、娯楽と捉えるかは十人十色だが、ハードメーカー側の意図は存在していると考えても間違いはないだろう。
 禁止事項が増えることが、セキュリティの強化には繋がらない。無菌状態を保てるのであれば問題はないが、いつまで経っても耐性がつかずに、結局のところ問題を先送りすることになる。世界にフィルターをかけることが、本当に子供のためになっているのかは、実際のところ誰にもわからないはずだ。幼少時代の亡霊に捕われ、「不遇な幼少時代を送った結果」と自分の人生を何かのせいにしたがる人間がいるが、実際のところ幼少時代という事実とは関係ないところで脱構築が行われる。要するに文脈から脱却できるかできないかが主題になるのだが、その際に必要になるのは何人もの自分、いくつもの視点である。セキュリティを強化した結果、その視点を養う機会を奪ってしまうことになるのであれば、僕は何よりもそれが一番怖いのだ。
 僕にとってゲームは必要なものだった。特に小学校時代は、自営業のため、閉店までの20:00までは自分で時間を潰さなければならなかった。17:00までは友人達も外で遊べるが、17:00以降になると外で遊ぶことは難しく(防犯上)、結局部屋でテレビを見たり、漫画を読んだり、ゲームをしたり、ということが多かった。習い事に行った所で19:00頃には終わり、部屋に戻って時間を潰す。その中でもやはりゲームの占める割合は高かった。時間を潰すという目的以外にもゲームには魅力があった。ゲームそのものの面白さもさることながら、新しい知識や考え方、キャラクターの違いなど、漫画やアニメとは違ったインタラクティブな部分に惹かれていた。年令が上がるにつれゲームにのめり込む(そのゲームのことだけ考える)ということはなくなり、逆にストレス解消のためにプレイすることが多くなった。例えばサッカーゲーム格闘ゲームなどが良い例だろう。RPGの様な、時間をかけて楽しむゲームにはあまり手をつけなくなり、1回のプレイ時間が短いゲームを好む様になった。時間のあった時期は、時間を潰すために、時間のない時期は、ストレス解消のために、とそれぞれゲームのプレイスタイルが変わった。
 それでは現在、自分にとってゲームが役にたったかと聞かれればイエスである。ゲームで集中力が増し、ゲームで決断力が上がり、ゲームによってデジタルというものの存在を知った。多分ゲームがなければ今の仕事には就いていないだろうし、Macに対してさえもそこまで興味を抱かなかったのではなかろうか。ビットやメモリ、メガバイト復活の呪文からセーブ機能など、情報処理の入口を知る機会を与えてくれたのはゲームだったのだから。
 話が右往左往しているが、子を持つ親として、子供が興味を抱く対象を無理矢理禁止にすることはしたくない。しかも似非科学を持ち出して「頭が悪くなるからダメ」という様な、無知的教育を与えたくはない。ゲームが好きで好きでしょうがなくても、自己管理ができれば、自己コントロールができれば良いと思う。何がプライオリティなのか、それが見えてさえ入れば特に禁止にする必要性はないだろう。セキュリティを徐々に低くし、耐性をつけさえ、行く行くは親の手から離れられるようにするのが僕の親としての役割だろう。