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最近は写真日記。

企画書とプレゼン、リンク切れの言葉たち

 社会人てのはプレゼンとか提案力があってしかるべき、だと思っていた。が、残念ながら今いる会社の人間に、「ほへぇー」となる様なプレゼンを見せて頂いた機会がない。まだ2年目だからそんなタイミングがないだけかもしれないが、2年も働いていて「PowerPointって何に使うの?これ?Wordと何が違うの?」という質問が多い現状に、希望を見い出すことが困難ではある。
 「プレゼンする。声に出して説明をするってことは、わざわざ書いてあることを読んでも仕方ないんだよ」大学2年の研究発表で教授に言われた言葉である。最もだと思う。言葉で説明できない部分を、図で示せる様にレジュメがある。論文とレジュメの構成は、そんな単純な使い分けの結果である。科学的論文は証明(過程)の一つの装置である。客観的に、誰が読んでも結論に辿り着ける様に説明したものだと捉えても良いだろう。
 ビジネス企画書とはそういう類のものではない事は認識している。戦略的なものであって、「こうしたい」「売りたい」という感情と主観が先にある。出発点が違うのはわかるが、他人に読ませる、見せるということでは望む目的は違っても、一部方法を共有することになる。要するに他人の認証を得る、という方法が、一つの目的と成り得る(その場にいる人間の認証を得たところで、企画書通りの目的は達成できず、認証を得るに留まれば目的に辿り着ける可能性は低いが)。
 残念ながら今の会社の企画書は、ただの言葉の羅列でしかない。プレゼンすれば良い内容が全て文字で書かれているだけで、レジュメとしても役に立たない。それで営業会社です、と胸を張っていることに苦笑するしかないのだが、企画書はやはり言葉では説明しきれない部分を載せるものだろう。特にPowerPointの使い方にしても、印刷して紙媒体での使用に限られていて、せっかくのインタラクティブ性は活かされない(だからWordでも良いでしょ?という発想になるのだろう)。
 ペルージャ大学ではPowerPointが流行っていた。WindowsだろうがMacだろうが、教授からアシスタントまで、とりあえずPowerPointを使って講義していた(多分、日本の大学でも今ではそうなっているのだろうけれど)。中でも岩石学の授業は完璧だった。リスト化された岩石名。クリックすると写真と成因などが次々と表示される他、生成に関してのフローがインタラクティブに表現されていた。PowerPointで作ったWebという感じである。
 紙に縛られる人とWeb等のメディアの意識がある人では、結局アウトプットされるものが異なる。平成生まれは間違いなく後者の因子が強く、リンク切れの言葉には興味を抱きにくいのではないだろうか。はてなを使い出した当初もいちいちワードリンクが貼られることが野暮ったかったが、人によっては「クリックすれば言葉の説明が出てくるからわかり易い」という意見もあり、傾向としては僕より年下の人間に集中している。
 同様に論文もまたデジタル化され、専門タームにワードリンクが貼ってあれば、門外漢にも親切な作りになるだろう。レジュメに関してもインタラクティブであれば表現の幅も広がる可能性はある(もちろん「すべき」ではなく、「でも可」というレベルである)。
 内容とはまるでずれるが、「リンク切れの言葉」は何だか一つのテーマだと思える。リンクされた言葉をクリックする。File Not Foundが表示される。ググる。検索にひっかからない。多分僕は「そんな言葉はないんだ」と早とちりする。その文章に出てきた言葉が単体で使用されていた場合、リンク先が見つからなかった場合、無意識的に信憑性を疑っている。Googleの所為だろうか。違うだろう。サーチエンジンは所詮サーチエンジンだと僕は思っている。使う側がその作為性を意識していれば釣られない。問題は言葉の非参照率なのではないか。どれだけその言葉に人がリンクしているか、その事実がネットコミュニティと携帯端末の普及と共に成長した人間には少なからず影響を与えている気がする(おっさんになったと思える様な主観だが)。
 強引に話しを元に戻せば、インタラクティブ、動きのある企画書とは、どれだけ言葉にリンクが張られているか、なのではないだろうか。何処をクリックしても情報が引き出せる、それが一つの「動き」のスケールになるのではないだろうか。そして何よりも企画書の言葉の価値を高めるものが、それなのだろう。