apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

オーストラリア語学留学:その2

 成田からパースまでの飛行時間は約14時間くらいだったと思う。時差はパースでは1時間日本より遅れていたが東オーストラリアではその逆である。パース空港は町の中心から30分くらいの場所で、僕が空港に着いた時はPHOENIXの営業が向かえに来てくれていた。彼には日本でも会って自己紹介を済ましている。オーストラリア人で陽気で面倒見の良い人だった。既にパースは日が暮れていたので、ホームステイ先へと送ってくれた。
 ホームステイ先はパースよりも少し離れた南パース(South Perth)で町の中心に行くにはバスに乗らなければ成らなかった。後から知ったことだが、そんな離れたところに住んでいるのは僕だけだった。ちなみにペルージャでの最初の滞在時も僕は隣町に住んでいて、外国人でそこまで離れたところに住んでいる人は居なかった。
 ホストファミリーは母子家庭の1人息子。母親は働きながら心理学を学んでいるとかで、最初は面白そうな人だと感じた。息子に会ったのはパースに着いた次の日の夜で僕と同い年の17歳だった。この家にホームステイをしたのは7ヶ月程で、それ以降は他のホームステイ先に滞在した。クラスで話しを聞いたり、他のオーストラリア人から話しを聞いてあまりにも、そのホームステイ先の待遇が悪いことを知ったからである。2つ目のホームステイ先は本当に素晴らしかった。そこも母子家庭ではあったが、まるで対応が違った。これからホームステイで語学を学ぼうとしている人がいるのであれば、ホームステイ先は納得がいくまで探した方が良いだろう。
 どれだけ対応が酷かったのかは数え上げるとキリが無い上に感情的になるのでここでは伏せておく。それよりもパースでの最初の1ヶ月間はただただカルチャーショックだった。アイデンティティクライシスに陥ったのは言うまでもなく、ホームシックにもなって1週間ほど日本に帰国した。日本で手に入るものが普通に手に入らない。日本の生活とはまるで違う。言葉がまるで通じない。僕のクラスはオーストラリアの高校に通うためのクラスであって、日本人は1人も居らず、タイ人や台湾人、インドネシア人が多かった。ホームステイ先の対応なども重なって、あの時に感じた孤独感はかなり重度のものだったろう。他の日本人は一般クラスで、休み時間さえも違うし授業時間も違う。また僕はパースより離れたところに住んでいるので授業後直ぐに帰宅しなければならなかった。日本語はまるで使うことがなく英語も上手く話せない。英語の勉強にはなったが、愚痴をこぼせる相手もいないので鬱っぽかったと思う。
 日本に帰ることができたのは授業が始まって1ヶ月して直ぐに復活祭休みが入ったからだ。飛行機代がもったいないとは思ったが、自分を立て直す為には必要な帰国だったと思う。1週間日本で充電して、準備も万端にオーストラリアに帰国後は最初の1ヶ月が嘘の様に、全てを受け入れることができた。あの1ヶ月で僕の17年間が壊れたと言っても良い。ある意味アノミー。それからのオーストラリア生活は楽では無かったが楽しく、また語学以上に、あの当時の僕には自己形成の場として適していた。