apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

「嘘つきが嫌いなんです」

 と言ったのは、22歳に成る青年。僕が彼に会ったのはまだ彼が20歳に成った頃だった。イタリアで料理の修業中。実家は中華料理屋だが「なんとなく、イタ飯かな」とイタリア料理を始めたらしい。彼には彼女がいた。詳しくは知らないが、彼らが共に過ごした時間は1年以上だろう。先日、私用でペルージャに赴いた彼に、偶然道端で会った。
 仕事の状況等を一通り聞いた後に、「あれ?そう言えば彼女は?」と彼に質問した。「別れました」という。彼らは何度も別れてはくっつき、その度に「別れました」という言葉を聞いていたが、今回ばかりは「もう完璧に終わりです。こんな馬鹿な僕にさえ見抜けるような嘘をつき通そうとするし、彼女の男関係には程々呆れました」という。
 実際の所、何処にでも転がっている恋愛話である。僕もその彼女を良く知っている。知っているというのは関係があるというわけでは無くて、色々な話しを聞いていたのだ。最初に知りあったのは彼女の方なので、様々な話しを聞いていた。彼の方はそれまであまり突っ込んだ話しをしたことがなかった。
 ぶっちゃけてしまうと、その彼女の話しを聞きながらも「何故に、彼はこの子とつきあっているのだろう。見抜けていないのか。それとも寂しくて、他に居ないから、見抜いている上で一緒に居るのか」という程、分かり易い「自分に純粋な女子」であった。この「自分に純粋な人間」とは「人を見限るとき」id:ain_ed:20040902の中で触れている。
 それが今回、彼と話しをしてみてやっと彼の考えがわかった。「いや、わかっていましたよ。プライドが高くて、嘘ばかりついてて。自分を守ることで必死で。今回も本当は嘘ついていました、と言ってくれればそれで良かったんです。証拠も何もかもがあるのに、それでも嘘をつくんですよ。しかもまるで一貫性が無いし、いつも他人任せで、それを自分の意思だと勘違いしている。かといって、僕が言ったところで聞きはしないですから。だから、ああもう駄目だなコイツはって。だから今回が最後なんです」という訳である。
 これも実にそこら辺に転がっている言葉である。僕は恋愛に関しては、奇跡に近いものを抱いている様なロマンチストなので、簡単に「愛」という言葉を使えない。これも以前書いたが、人が抱ける様な愛は一つしかないと思っているからで、この愛を赤の他人に持続できるような恋愛はやはり奇跡だと考えているのだ。「好きだ」とはいくらでも言えるが「愛してる」というのは、今の自分の人生を生きることよりも難しい。
 彼と彼女の関係が恋愛だったのかは、他人である僕にはわからない。彼らが、あれは「愛だった」というのであれば愛だったのだろう。ただその愛は彼女にしてみれば「自己愛」であって恋愛とは逆方向である。彼にしても自己愛から溢れた「恋愛の様なもの」であって、未だに恋愛には遠い。「人を信じる勇気」という言葉を使う人がいるが、信じるに値する様な人は基本的に疑う余地がない。というのが、僕の恋愛観である。別に恋愛なんて言葉遊びをしたところで何処に辿り着けるわけでもない。愛についても同様である。基本的には実践あるのみであるが、僕にとっては「自己愛」を越える様な愛に出会えないので、その自己愛が尽きるまではそれを実践するしかないのだ。「嘘も方便」と言うが、僕も嘘は嫌いである。というより嘘で全てを丸く収めようとするその思考が、1番気に食わない。それは僕にとって禿げをバーコードで隠すようなものである。
 と言うようなことを書いてみると、やはり先日の新動物占い、あながち外れでもない。とにかく僕には恋愛は向いていないようだ。